M3神話解体試論 (2018.1.3版)
(追記 2018.01.09) 一通り書き上がってはおり論旨の大枠に変更の予定はありませんが、お読みいただいた皆様からご指摘をいただくにつけ史実の前後関係の整理や論証部分に不足を感じ、現在当時の資料や実機を追加で収集して書き直しを進めております。そのような暫定版としてお読みいただければと思います。
問題提起
いわゆるライカM3にまつわる「M3神話」(=あまりに高度なM3の登場がライカを目指した日本メーカーを諦めさせ一斉に一眼レフに方針転換する契機となった云々)は、事実に反した神話・伝説の類いである。
- この言説はM3登場当時から流通していたものではなく、50年代から遠く離れて実情が分からなくなった時代に、当時の開発者などによる本来は様々な前提条件を踏まえた上でなされた証言をもとに、それぞれの文脈から切り離されたうえで形成されたものと考えられ、穏当に言っても大量の注釈なしには受け入れられないものである。
- この神話が流通することの問題は何であるのか。以下の三点であると考える。
- 端的に事実に反していること。むしろM3は35mm RF機の達成と限界を示した機種であり、M3登場前後には当時の高級RF機メーカー以外の動きで一眼レフが次の覇権を握る環境は既に整っていた。
- まだ占領下であったその初頭から朝鮮特需を経て高度経済成長に至り、もはや戦後ではないといわれるようになる激動の50年代において、工業生産体制に起こった劇的な変化がカメラ・レンズ・フィルムをはじめとした写真文化を取り巻く環境にも波及し、爆発的な裾野の広がりと質の向上と変化が起こった。その50年代の熱気あふれる時代の動きの具体像を覆い隠してしまうこと。
- 一眼レフという写真以前からの歴史をもつ光学系がカメラに取り込まれ、大判、中判、35mmと連綿と改良を続けていくことで35mm機のデファクトスタンダードを獲得していくという改良史とそれに関わったメーカー、開発者の存在を覆い隠してしまうこと。
用語の定義
ここでいう「M3神話」とは例えばWikipediaにおける「ライカ」の項で述べられる以下のような言説に代表されるものと定義する。
1950年代ごろまでの日本のカメラメーカーはライカを目標にして小型カメラの技術開発を行なっていたが、1954年に発表されたライカM3はレンジファインダーカメラとして当時最高とまで言われるほどの技術を余すところなく投入しており、その性能の高さのあまり日本のカメラメーカーがそろって開発方針を一眼レフカメラへと大転換させるきっかけになった。(Wikipedia(ja)「ライカ」,閲覧 2017.12.16)
- Wikipedia日本語版における「ライカ」の項は2004年3月6日に初稿が出ており、初期はごく簡素な記述であったが、明けて2005年1月4日にまとまった追記がなされ、このときには既にこの記述が登場している。しかしながらこの記述がなにに基づくものであるのか出典は示されていない。
- 同種の記述は2017年現在のカメラ誌等の言説空間においても再生産され続けているのが現状である。
論説:1.「背景」
- 50年代を通して状況はめまぐるしく変わるが、当初覇権を握ったのは二眼レフとスプリングカメラである。スプリングカメラは戦前からの継承であるが、50年代にはリコーフレックスに代表される二眼レフの日本カメラ史に残る大ブームが巻き起こったことは忘れてはならないだろう。どちらもブローニーフィルムを使う中判カメラであることに留意が必要である。35mmフィルムカメラが覇権を握るには明るいレンズと、なによりフィルム自体の質の大幅な向上が必要であった。
- しかし、50年代の中期にはスプリングカメラ・二眼レフ共に"古くさいカメラ"であると見なされるようになり、二眼レフメーカーは急速に数を減らしていく。メーカーの過当競争と粗製濫造があったのも確かであり、品質で確実な支持を集めたメーカーはその後も生き残っていく。
- 忘れられがちなのは当時の経済状況と貨幣価値。また各機種の相場である。50年代を通して状況は変わるが、一般にライカコピーとされるレンズ交換式RF機のうち高級ラインの方は当時の国産一眼レフより相場が上の場合が多いというのは意外に思われるのではないだろうか(補論参照)。なお、このジャンルで一番高価なのがキヤノン・ニコン、次にレオタックス、ニッカ、だいぶ下がってミノルタ、チヨカ、タナックであり、厳然としたランク付けがある。なお、時期はやや前になるが前段のリコーフレックスはこれらよりずっと安い値段で市場に登場しており、そのインパクトは大きかったであろうと想像される。
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- nicca 3-F(5L相当 / 1956?)+Jupiter-8 50/2 / Leotax Merit (1959)+ W-Komura 35/2.8
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- Tanack IV-S (1955)
- 一眼レフは既に海外勢と日本メーカーとの競争で機構上の課題がクイックリターンミラー、ペンタプリズム、自動絞りでありレンズにおいてはレトロフォーカスであることは衆目の一致するところであった。これらの課題が着々と克服されることで特殊用途向けと思われてきた一眼レフが35mmカメラの主役を張るべく地歩を固めつつあることは理解されていた。
- また当時の流通の事情により、国内で強力な代理店を確保できなかったメーカーは国内で思うように物を売ることが出来なかったと言うことには留意が必要である。一眼レフメーカーが海外に販路を求めた事情の一端である。
- この頃、生産台数でいえば圧倒的に他形式を凌駕しており、また海外でも外貨を稼いでいたのは35mmレンズシャッター機である。なお、今は捨て値でジャンク箱に転がっているレンズシャッター機一台は、幅はあるものの公務員の初任給1~2ヶ月分であった。このゾーンが写真愛好家の層を急速に広げ、それまでの写真文化とは違う視覚体験を求めつつあった。
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- MINOLTA A-2 (1956) / Taron 35 (1955) / TOPCON 35 (1956)
論説:2.「M3の登場を受けて起こった"実際の"反応」
- 当時の写真誌を見るにM3は驚きをもって受けとめられているが"神話"の言うように日本のカメラメーカーの開発路線を一斉に一眼レフに切り替えさせるようなものではなかった。これにはいくつかの理由が考えられる。
- 一つにはM3は非常に精度の高い機種ではあったが機構的には既知のものがほとんどでそれを35mmのコンパクトなボディにバランス良く高精度にまとめたものという実態を見つめるべきであろう。M3自体がライカだけではなく広く世界のカメラ史の相互の影響関係の中で生まれてきた結節点としてあることに注目した方が様々な気づきがもたらされるのではないだろうか。
- また、もちろん戦前の価格と比肩するものではないにしろ、ボディ単体で公務員の年収に匹敵したM3は依然大変に高価な機種であり、当時の国内メーカーとすぐに競合するような価格帯の機種では無かった。例えば海外自動車メーカーが1000万~億クラスのスポーツカーを登場させたとして、それは確かに衝撃だが、国産車と直接競合するものではなく市場は両立するということは理解しやすいのでは無いだろうか。
- むしろ記録を見る限りで国内RF機メーカーの対応として起こったのはM3の機構/発想/デザインの部分的な取り込みである。例えばAiresはM3についての事前情報からブライトフレームの採用を読み取り、M3の実機を確認する前に自社のカメラに取り入れている。
- またM3登場以後もライカはバルナック型の生産を続けざるを得なかったと言うことに考察が必要と考える。当時の企業規模、生産体制で複数のラインを維持することは企業にとって大きな負担であるが、カメラとはシステムであり周辺機器を含めての使い勝手であって、如何に単体として優れていたとしてもM3が登場したからと言って即座にM型に収斂するほどのものではなかったことを示しており、これは日本のライカコピーメーカーにとっても同様だったはずである。もしM3が出たからといって、本当に即座に一眼レフに舵を切っていたら、メーカーは市場からそっぽを向かれ退場しかねなかっただろうと思われる。そこは空き地では無く国産一眼レフメーカーの群雄割拠が始まっている戦場だったことを見逃している。
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- Leica IIIG (1957)
- 従って、M3の登場を受けて日本国内のライカコピーメーカーがとった戦略は「バルナック型コピー機にM3の要素を取り入れて改良しつつ、M3対抗機を開発する」であったと考えられるし、実際にメーカーはそう動いた。NikonのSP、キヤノンのVT系、ミノルタのミノルタスカイ、LeotaxのLeotax G、Nicca III L、Tanack SD/V3がこれらにあたる。
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- Nicca III L (1958)
- 以前から一眼レフを開発していたメーカーは東独などと競いつつ着々と開発を進めており、一眼レフの開発史を著すとして実はそこにM3を登場させる必然性すら無い。オッカムの剃刀を持ち出すまでも無く、それが無くても説明が出来るならそのようにすべきなのである。あえてこの文脈で取り上げるとするならばビゾフレックスとの関係においてであろう。
- なお「シンプルなバルナックライカはコピーできたが、高度なM3コピーを開発することはできなかったのだ」とする言説が見られることがあるが、悪質なデマであり言下に否定されなければならない。50年代後半は工業デザインの保護意識が急速に高まりを見せており、外貨獲得の為の輸出産業としても重要であった日本のカメラ産業は海外メーカーから厳しい目を向けられるようになっていた。逆にこの時期二級品の安価なまがいものの供給地として日本製レンズシャッター機をアメリカ市場向けに買い付けに来ていた海外ブローカーやそれをお得意様とした小規模メーカーの活動もあったようである。ローライからヤシカへの訴訟が代表的なものであり、少し後になるがブロニカも抗議を受けていく。戦中のどさくさに紛れて行われたバルナックライカコピーはともかく、パテントで完全に守られたM3をそのままコピーすることはありえなかったのである。
- これは余談になるが「第二次世界大戦の賠償でドイツの特許が無効になり、戦後はバルナックコピーを世界中で作り放題になった」という言説が行われることがあるものの、これもデマに近い。そもそも日本がドイツの同盟国であり敗戦国であることを考えればあり得ないことはすぐ了解されるだろう。戦中に各国がライツのパテントを意図的に無視したのは事実であるにしろ、戦前においてはバルナックコピーを作成するにしてもライカのパテントを迂回するための方策が各社採られていた。それは距離計についてのライツのパテントを各社が尊重していたということであり、なぜ戦後においてそうならなかったかと言えば、単にライツの持っていた実用新案の存続期間が切れただけというのが真相と思われる。実際のドイツの戦後賠償とその際に接収された知的財産がどのような経緯で日本の光学の世界に流入したかは戦後のアメリカとの関係で記述されなければならない。
論説:3.「一眼レフ市場の拡大と主役の交代」
- 海外市場、特に輸出先と大きかったアメリカ市場の状況を押さえる必要がある。この辺りは資料を充分には確認できていないが、ライカM3が圧倒的な支持を受けたという状況では無く、むしろ妥当なプロ機として日本製高級RF機が受け入れられ、より安価な日本製レンズシャッター機、そして次の主役として一眼レフが期待されていたようである。既にアメリカには一眼レフの市場があった。このあたりは完成したミノルタスカイを持って勇躍アメリカに乗り込んだ当時の田嶋社長が帰国後即座に高級RF路線を破棄して一眼レフに切り替えたという著名なエピソードがある。となれば、高級RFから一眼レフへの転換は一眼レフ専業メーカーの開拓した市場の成長により余儀なくされたものと考えるべきでは無いか。
- なお、50年代を通してカメラユーザーの経済力は大きく変わり、またカメラの価格帯も変動している。そのなかで商売のスタイルも変わらざるを得なかったことを考慮しなければならない。50年代の後半に至ってもバルナックライカコピー機(またはレンズ交換式RF機)はなお一定の市場性を保っていた。そのなかでキヤノンは価格を引き下げてなお機構には妥協しない戦略機種としてCanon Pをヒットさせる。
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- Canon P (1959)
- ニッカのヤシカへの吸収とレオタックスの倒産について考察すると、この二社は市場の変化を読み違えたのではないかと思われる。二社を追い詰めたのは一眼レフとなによりレンズシャッター機である。その市場は一気に拡大し、現代に置き換えるならばコンデジの市場をその外側から駆逐したスマホのような存在であった。M3対抗機を開発している間に、肝心のレンズ交換式高級RF機が徐々に市場を失いつつあった。なお、バルナックコピー機はそれなりの市場を50年代末でも保っていたようであり、Canon Pはそこをターゲットに据えた。しかし価格帯は下がっており、商売としての利幅は薄くなっていっただろう。ニッカを吸収したヤシカはヤシカYFとYEとして模様替えしたバルナックライカコピー(Nicca 33)とM3対抗機(Nicca III L)を出すが、この二機種のみでレンズ交換式RF機には本格参入しなかった。バルナックコピーを通じて培われたニッカの技術がどのようにヤシカの60年代につながっていくのかはまた別の歴史である。
- レオタックスはM3対抗機としてのGを開発していたが、肝心の生産が予定通りにいかず資金ショートを起こしたことがのちのインタビューで語られている。そのなかで高野元社長は、まだ売れていたバルナックコピー機の生産を打ち切ってしまったことを悔いているが、同一フレームのバリエーションでは無い複数機種の生産がいかに企業に負担であったかを示す事例でもあろう。
- また、このインタビューで高野元社長は融資を受けられなかった理由として銀行側担当者が交替して事情の分からないものが担当になったことをあげているが、これは額面通りに受けとめられる話だろうか。高級RF路線の先行きを暗いとみた銀行が追加の融資を行わなかった、その理由付けという背景も考えられるのではないか。
- レオタックスはこの当時"レオフレックス(詳細不明)"という一眼レフの試作を行っていたようである。昭和33年(1958年)ごろからレンズ交換式レンジファインダー機は価格競争が始まり、それまでの高級機で値下げが断行されていく。その前後で普及機種メーカーが商売を続けられなくなって退場し、高級メーカーでも二番手組だったニッカとレオタックスは次の時代を迎えられなかった。レオフレックスとレオタックスGと、違う選択と違う歴史はあり得たのだろうか。
- ニコンはSPと同時に一眼レフFの研究を始めていたが、開発はあくまでRF機を補完するものとの位置づけで考えていたようである。しかしまさしくシステムして登場したFはいざ市場に投入されると一眼レフ市場を席巻することになる。なお、キヤノンはキヤノンフレックスを登場させたがこれは市場の支持を得られなかった。不具合が多かったと言うことだが、当時の実情を追うのは今後の課題である。
- システムであること、と書いた。M3は大変優れたRF機である。多数の素晴らしい周辺機器にも恵まれプロとハイアマチュアに愛された。しかしRFである以上、その構造的限界は宿命である。非常に高価でもあった。仰ぎ見て嘆息し目を落とした新興カメラユーザーの視線の先にはもっと安価で、より直感的で、これまでない新しい時代の視覚的体験を切り開いてくれる一眼レフの姿があった。時代の主役は自ずから交代したのである。歴史のスポットライトは常にユーザーのいるところにあたる。デジタルが銀塩からユーザーを奪い、スマホやタブレットがPCを玉座から引きずり下ろしたように。ニコンFは35mm RF機からだけでなく、プレス機からも市場を奪っていった。そして主役の座を奪われたとはいえ、銀塩やPCがそれぞれの魅力を放ち続けていることもまたレンジファインダーと同じであろう。カメラ/写真史はより複雑でダイナミックで魅力的なものである。
まとめ
- 「卓越したM3が日本メーカーの方向性を転換させ一眼レフに注力させた」というのは、偽史である。実際の推移について断片的ではあるし不足はあろうが、従来の言説からは消えている部分を載せているので興味がある向きは資料に当たっていただきたい。その過程でこの乱雑で力任せのまとめで修正しなければならない点は当然出てくるものだと考える。
- RF機から一眼レフへの移行は一眼レフメーカーの世界的な切磋琢磨のなかで、また感光材の改良やレンズシャッター機の進化と普及、経済力の向上と写真趣味の広がり、そのなかで求められた新たな需要と視覚体験、そのような総合的な動きで見るべきであろう。それを追うなかで、おそらく従来よりずっと素敵で刺激的な歴史との出会いがあるはずだと私は考える。
補論
- 1.「誰が神話を"騙った"のか / 回想録等の取り扱いについて」
- (1) 神話の覆い隠すもの
- 最後にもう一度冒頭で紹介した「ライカ」の項に戻りたい。
1950年代ごろまでの日本のカメラメーカーはライカを目標にして小型カメラの技術開発を行なっていたが、1954年に発表されたライカM3はレンジファインダーカメラとして当時最高とまで言われるほどの技術を余すところなく投入しており、その性能の高さのあまり日本のカメラメーカーがそろって開発方針を一眼レフカメラへと大転換させるきっかけになった。(Wikipedia(ja)「ライカ」,閲覧 2017.12.16)
- 一見もっともらしいこの記述なのだけれど、改めて目を通すと疑問ばかりが沸いてくる。
- 例えば「ライカを目標にした」とは具体的にはどういうことなのだろうか。小ささだろうか?レンズシャッター機ならバルナック型と同等かそれ以下のサイズ感だった。シャッター機構だろうか?布幕横走りフォーカルプレーンで同等の機構は実現されていたし、むしろ独自の機構を実現しようと努力していたメーカーがある。ファインダーだってそうだ。精密感だろうか?なるほど、だが価格帯(ドイツ本国でのそれと比較してさえ)が違うのだ。50年代前半はベースとなる工作機械から生産体制までまったく違う。出来る範囲で努力することと無謀は違うであろう。
- そもそもこの「日本のカメラメーカー」とは具体的にはどこを指すのだろうか。既に述べたように、50年代前半まではスプリングカメラと二眼レフの時代だった。次に来たのはセールスから言えばレンズシャッター機の時代でもあり、それは60年代以降も続く。一眼レフメーカーはレンズ交換式のRF機には行かず、最初から一眼レフに取り組んでいたり、それと普及帯のレンズシャッター機との組み合わせだったり、あとは交換用レンズがラインナップだったりする。旭光学(=ペンタックス)、オリンパス、コニカ、ヤシカ…レンズ交換式RF機に取り組んでいなかった故にほとんどまたは全く本文で触れることのなかった各社だが、彼らは日本カメラ史の傍流であろうか、そんな訳はないだろう。そして50年代で消えていった各社の群雄割拠。この「ライカ」の類いの記述からはその活躍がすっぽりこぼれ落ちてしまいかねない。それが私がこの文章に取り組んだ理由である。
- M3が登場して各メーカーがしたことは「M3対抗機の開発」または「その思想の部分的吸収」であったことは既に書いたとおりだ。参考資料で紹介している同時代資料をみてもM3登場当時の論調はあこがれつつも「必要なのは国産機の質的向上だ」と至って冷静で「もうダメだ!これからは一眼レフにいくしかない!」なんて記述を目にすることは一切無かったことは改めて書いておく。
- なお、国産レンズ交換式RF機はM3登場以降も新機種は登場し続けて60年代まで一定の市場を保ったし、RF自体はEE(AE)機構と組み合わさって60年代以降のカメラ/写真史に続いていく。興味のあるむきには是非調べていただければと思う。
- (2) 回想録等の取り扱いについて
- では、この偽史はいつ頃発生したのか。90年代のクラシックカメラブーム前後に出版された書籍類の中に散見される記述がその原因であろうとみている。ただし源泉と言っているのであって偽史そのものであると言っているわけではないことに注意していただきたい。
- 例えばミノルタ(千代田光学精工)出身で幻のミノルタスカイのデザインを担当した白松正『カメラの歴史散歩』にはこのような記述がある。
このショック(引用者注 M3ショックのこと)がやがては時代の要請もあって、日本の有力なメーカーを一眼レフに指向する方向に転換させ、35mm一眼レフ時代を築いていくことになっていったのである。(P.97「5.使う人の心に触れる「ライカ」」)
しかしやがては「M3」に対抗することの困難さの意識を背景に、日本の有力メーカーは、次代の主力になると予感させる35mm一眼レフへの取り組みを促進していくことになる。これが次代の要請にも合い、ドイツと日本のカメラ産業の主役の交代にも連なっていくことになる。(P.155「I.日本カメラ産業の戦後10年」)
また白松の友人で同じくミノルタ出身の神尾健三『ミノルタかく戦えり』には以下の記述がある。
「ライカM3」の出現で日本カメラはペンタプリズム35mm一眼レフに方向を変え、独自路線を走ることになった。(p.55「第2章 焼け跡からの船出」)
- 単純な「神話」と比較すれば奥行きのある表現ではあるが、それにはかなりの注釈が必要だろう。二人がともに同時代のミノルタ(千代田光学精工)の技術者であったことは意識しておく必要があるかも知れない。少なくとも50年代のミノルタの一部にはライカを目指しライカにあこがれる空気があったことが著作からも読み取れ、それは後に一眼レフやCLでのライツとの協業の下地になっていくのだろうが、歴史資料として取り扱うには注意が必要だろう。
- 以下のような記述を見てなるほどと思ってはいけないだろう。技術者としての神尾の思い入れがどちらにあったかは分かるが、それをこのように表現してしまうのだ。コンタックスもまた人の手によって作られている以上、そちらへの敬意もあってよかろうにと少々鼻白むところである。
バルナックというマイスターは、いわばドイツのカラクリの匠である。こんなカメラは機械工学の専門家の手からは生まれない。ツアイスの「コンタックス」は機械工学者の知恵から生まれたが、機械工学の論理ががんじがらめに交錯している。機械は動くが、カメラに生命感がない。天才の息吹がないのだ。(同上)
- 例えば神尾の著作では以下のような表現にも行き当たる。実はここまで引用箇所は同じ頁である。
「M3」のカメラ設計は完璧だが、バルナックのような単純さがない、とくにシュタインが設計したレンジファインダーは凝りすぎている。「バルナック・ライカ」のもつ単純明快な設計ではない。ここまではやれないと日本のカメラの技術者は、別の登山道を求めて「ライカ」と決別した。(同上)
だが、アメリカ市場では高価な「M3」よりも堅牢で安い「ニコンS」に衆目が集まり、プロは競って「S2」を買ったのだ。「M3」はハイアマチュアの金持ちが買うカメラ、「S2」はプロが使うカメラと相場が決まってしまった。これが「芸術」と「経済」の評価の差である。「床の間」の飾りと「実用品」の差である。(同上)
- これらは当時の実態であろうし、実感でもあろう。だがほんの一頁前で神尾はM3を「やっと手に届きそうになった『ライカ』がその瞬間、再びはるか彼方に飛び去ったのである。その後、日本のカメラの進路には「ライカ」の乱気流が立ちこめていた(p.54)」「「ライカM3」という優雅な貴婦人のような新カメラに、日本カメラはシャッポを脱いだ(同上)」とまで賞賛しているのだ。それが次の頁でかくのごとしという次第で、人間の主観というのはいくらでも矛盾できるし、それぞれの文脈において嘘はないのだが、時系列や客観的な資料で確認していく作業を怠ると危険だと改めて意識させられる。
- なお、日本のカメラ/レンズ史をたどる上で白松の著作も神尾の著作も現場の立場からの貴重な証言にあふれた著作であることは間違いない。問われるのは読者側の姿勢だろう。例えば神尾の別著作に『ライカに追いつけ!』(1995)『目指すはライカ!』(2005)があるが、私がこの二作から興味深く読み取るのが「ライカを目指すところではなく」または開発者とは別の立場でカメラの市場に関わった様々な人々の動きであるように。
- このあたりライカの名前がほぼ出てこない日本カメラ史をたどろうとするなら例えばオリンパスでPENやOMシリーズの開発者となった米谷美久の回想などは一つの補助線になるだろう。
- (3) 誰が神話を"騙った"か
- 一般に十年一昔と言う。十年の歴史を一昔としか認識できなくなる辺りが歴史と"お話"の境だろうか。同時代資料にもアクセスしにくくなる。記憶は失われていく。そして三十年は"一世代"の基準とされる。ライカM3から遠く一世代三昔以上離れた90年代のクラシックカメラブームの頃にまとめられた資料の質はどうだったであろうか。同時代から離れるに付けディティールは失われ、当時の大事件は英雄の行為に収斂し、伝説化していく。回顧録さえ注意深く扱う必要があることは上記の通りだ。
- AJCCの代表を務めた高島鎮雄の著作に『クラシックカメラへの誘い』があるが、そこでの記述ではこうなる。
それまで必死にライカに追いすがってきた日本製35mmフォーカルプレーンシャッター機が、もはやM3に追従することは不可能だと距離計連動方式に見切りをつけ、一斉に一眼レフに転じてしまったのだ。もちろん、一朝にして一眼レフに大転換できるわけではなく、日本のメーカーは早くからカメラの将来は一眼レフにありと見極めて、秘かに研究、開発を進めていたのだが、踏ん切りをつけさせたのはほかならぬM3であった。(P.48 「第6章 ライカM3の衝撃」)
- 50年代の動きをひとまとめの「日本のメーカー」として書こうとする乱暴がこのような微妙な表現につながってしまうのだろうか。「もちろん」前後の記述に矛盾を覚えなかったのか。RFから一眼レフへの"転換"を機構史として描こうとすることに無理があるのだと私は考えるし、マニアが往々にして見逃すのが実際の市場の動向であったり、それを支持するユーザーの視座であるのだが、ここでは名機M3を"英雄"として描きたい欲望が著者の目を曇らせてしまっていると思う。
- クラシックカメラ選書はよく読まれた。上記の神尾や白松にしろ、このあたりが神話の"源泉"だろう。それぞれは積極的に"偽史"を説こうとした訳ではまったくないし、分厚い著作のなかの一部に微妙な記述が紛れ込んだに過ぎない。だがそれが全体から切り離され「決まり文句=クリシェ」となったとき伝説化が始まる。
- それはおそらく90年代のクラシックカメラブームでのライカの取り上げ方にマッチした。私は当時ブームの外にいたし関心も無いのだが、今回改めてこの項を書くために当時の資料も集めたものの質に問題があって参考資料に載せていないものも多い。
- 乱暴に言えば、90年代のライカは実態を離れ神話上の英雄のごときものであったかのようだ。ライカの栄光はカメラ史に高く、皆がその英雄譚を語るたびになぜかディティールは増補され新しいエピソードが付け加えられていく。しかし、その陰で実際のところ何人がライカを使い、また同時代資料にあたって書いていたのか。これまで信頼できる資料と思っていた『写真工業』誌でさえ、90年代に書かれた50年代の記事の記述は怪しい。2000年代以降の記事はたとえ名の通ったライターの記事でも孫引きばかりで目も当てられないというのが実情である。
- 皆、きっと楽しかっただろう。だがもう十分だ。神話でもなく伝説でもなくその時々のカメラ/写真史に向き合っていきたい。私たちは知っている。決して優れたものが評価されるわけでは無く、充分に評価されないまま埋もれいくことが往々にしてあることを。また既に評価されているものも、別の角度から眺めるとまた違った魅力的な姿を現すと言うことを。
- 通説を補強していくことも大事な作業である。と同時に、通説がむしろ誤りだというならそれが覆い隠してしまったことを、当時充分に発揮されなかった可能性を見つけ出し愉しむことこそ趣味人の本懐ではないだろうか。
- 2.「1950年代のカメラ/レンズの価格帯について」
- 以下に参考資料として当時の写真誌に掲載された広告資料を示す。現在の物価と当時の物価の比較は難しいが、参考に公務員の大卒/高卒初任給を示すので適宜換算していただきたい。なお、50年代を通して、前・中・後期で経済状況は全く違うと言うことは踏まえる必要がある。
- 1.『カメラ太陽堂 広告』
- 2.『富士写真株式会社 広告』
- 出典:1955 「フォトアート臨時増刊 35ミリカメラ新書」 研光社より
- 参考:大卒初任給(公務員)8.700円 高卒初任給(公務員)5.900円
謝辞
- この原稿をまとめるにあたって、以下の皆様にお力添えをいただきました。
- 佐藤 様 ( @sigeosato )
- kan 様 ( @kans1948 )
- Kan's Room 管理人
- 言わずと知れた大御所でいらっしゃいます。精読いただくとともに同時代の記憶をもとに傍証をいただけるのはありがたいことでした。
- 森羅 誠 様 ( @Rally750)
- CRK2 process 管理人
- 今回、記事をご精読いただくとともに大変多くのご助言をいただきました。森羅様のご提案がなければ途中で話が妙な方向に行ったり、より読みづらい物になった可能性が高いのです。また途中でたくさんのライカをお譲りいただきました。実機をもとに考えることがどれだけ補強になったでしょうか。本当にありがとうございました。
- dinosauria123 様 ( @dinosauria123 )
- 他にも多くの方のご支援をいただきました。皆様の"いいね"やRTがこんなに心の支えになるのだなと改めて感じた次第です。本当にありがとうございました。
参考資料
- 同時代資料
- 1952 「フォトアート臨時増刊 カメラの知識」 研光社
- 1953 「フォトアート臨時増刊 続・カメラの知識」 研光社
- 1953 「フォトアート臨時増刊 35ミリカメラ全書」 研光社
- 1955 「フォトアート臨時増刊 35ミリカメラ新書」 研光社
- 1957 「フォトアート臨時増刊 二百万人の35ミリカメラ新書」 研光社
- 1957 「写真工業 No.61 8ミリ・カメラ レンズ フィルム プリズム一眼レフの諸問題」 光画荘
- 1958 「写真工業 No.77 特集 模倣問題を衝くミノルタのカメラ」 光画荘
- 1958 「フォトアート臨時増刊 写真百科」 研光社
- 1964 「特集フォトアート No.61 100万人の一眼レフカメラ新書」 研光社
- 50年代の記憶
- 通史
- (日本写真機工業会 編) 1971 『戦後日本カメラ発展史』 日本写真機工業会
- (日本写真機工業会 編) 1987 『日本カメラ工業史 -日本写真機工業会30年の歩み-』 日本写真機工業会
- (朝日新聞社編) 1988 『カメラ面白物語』 朝日新聞社
- 北都連太郎 1999 『クラシックカメラの世界 1890's-1960's』 ナツメ社
- Todd Gustavson 2009 "CAMERA" GEORGE EASTMANHOUSE
- Todd Gustavson 2011 "500 CAMERAS -170years of PHOTOGRAPHIC INNOVATION-" GEORGE EASTMANHOUSE
- 現代カメラ新書
- クラシックカメラ選書
- クラシックカメラブームへ
M3神話解体試論 作成用メモ(あるいは50年代写真文化史考に向けて)
日本の古本屋で「クラシックカメラ専科3 戦後国産カメラのあゆみ」を注文。まだ持っていなかったのかというツッコミを受けそう。これである程度疑問が解決すればいいけれども。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月24日
バルナックコピー機への機能追加、レオタックス後期だと巻き戻しがクランクになっているのね。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月24日
一眼ファインダ、視度補正、裏蓋フル横開き、レバー巻き上げ、巻き戻しクランク…を全部装備したもので"バルナックライカのシルエットを保ったもの"は無さそう。この路線の国内完成形はキヤノンかな。
最終機レオタックスGは発売前に倒産、別会社より販売。ミノルタスカイは販売中止、タナックはV3の一つ前のSDがこの路線、NiccaはIII L→ヤシカに吸収されてYE。このあたりを触ってみたくはあるけれど、そろえるとしたら恐ろしい。それでもTLを流れてくる中判デジ一台にもならないけれど(笑)
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月24日
いざまとめようとしらFedの登場年だけで資料ごとにバラバラだよ。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
FED-6なんてのもあったか…スペックだけならM7の対抗機。販売はされていない。これが1950年代に出ていれば凄いが出たのは世紀末…販売はされなかった。https://t.co/2SQmFXeuo0
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
ちょっと手をつけ始めただけでもう厳しい。最初はシンクロ接点を入れないつもりだったがそれだとZorki-Cが入らない。一応シベリアは実在するモノとしているけれどオーロラは完全なフェイクと判断。継続的な改良があるということでソ連は入れたけれどあとの海外バルナックコピーは外す。無理。 pic.twitter.com/HLLwQemytc
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
(主に)国内バルナックライカコピーの比較表、戦後に限定。M3の登場や戦後の様々な機能の大まかな影響関係が見たいのであってライカコピーの歴史が知りたいわけではないと自己催眠。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
対象を戦後に限定。参照軸としてのソビエトを除いて海外物は対象外。それでもキヤノン、ニコン、ミノルタ、レオタックス、ニツカ(ヤシカ)、田中光学などなど…佐藤さんからご指摘を受けたニツカの図面を基にしたと思われるメーカーも外すかな…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
キヤノン→ニッポン→ニッカ→(ここらで設計図が売られた?)→ゼノビア35(コピーライカの方、現存するとのこと)→オーナー→イチコンみたいな流れ、らしい。わけわからんね。魔境だわ
— 佐藤 (@sigeosato) 2017年11月23日
確か幻のカメラを追ってだったかと思うんですが、人材的にはキヤノンから分かれた形のニッカが「レオタックスはともかく他は図面が流れたから出来たようなもん」みたいなコメントしてるので、そうなると国産RF機のルーツはほんの数社しかないことになるかなと。そのルーツが比較的残ってる
— 佐藤 (@sigeosato) 2017年11月23日
まだ項目が増える気がする。データは製作途中のモノなのでまったく信じないでくださいね。特にFed / Zorkiの登場年度。 pic.twitter.com/8fP7OeroqK
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
で、バルナックライカコピーの戦後史を自分なりにまとめていて、改めて手元のnicca 3-Fがおかしい。こんなniccaどこにもない。これ海外のTower 45/46仕様なんじゃないだろうか。それなら5Lなる型番が知られているが、なんでそれが3-F銘で出ているんだ?
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
段ボール行きの山を掘り崩して三冊ほど発掘。クラシックカメラ専科の該当号が届くまでに読み返すと色々勉強になるだろう。ああ、カメラから写真史にシフトしようと書棚をかなり整理したところでこれだ。 pic.twitter.com/RM5lDkAnWS
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
発掘した三冊、読み返すと結構なことが分かった。求めている答えは手元にあって、しかも当時読んでいるはずなのに、やっぱり興味関心が自分の中に沸いていないと通り過ぎてしまうものなのだなと。基本、niccaとLeotax、あとtanackを追えば充分と思える。 https://t.co/l82o7QW2S0
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
バルナックライカ系のスタイルさを保ちつつ、巻き上げレバー、蝶番式横開きフルオープンの裏蓋、一眼式ファインダーという三要素を実現した機種となると一番近いところでZorki-6になってしまいそうなのに頭を抱えている。Canonをどう考えるかでPが浮上するけれども。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
個人的にはTanackが巻き上げレバーを採用するかLeotaxが蝶番式の横開き裏蓋を採用してくれればほぼ理想的なのだけれど。またはNicca。一眼式ファインダを採用すると一気にスタイルが箱になる。だからBessa-LかZeiss Ikon SWでいいじゃんと言う話になってしまうと元も子もないのだが。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
Fed / Zork / Fake Leica
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
Nicca 5L または Nicca 5
Leotax FV
Tanack IV S
Canon P
Zorki 4k
Zorki 6
Bessa-L
こんな感じでストーリーが描けないものか。安原一式は…うん、まぁ、本の紹介ぐらいで。
Lマウントの系譜を考えていてFed/Zorki系にはレリーズ対応という項目も必要だと気づく。あの特徴的な皿形のシャッターボタン形状につながる。そう考えていてレニングラードという代物が脳裏をよぎる。いや、あれには手を出したくない。が機能的にやはり1960年の同時代的な動きがあると感じさせられる。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
今回一番勉強になったのはFed-6なる機種がプロトタイプまでは存在していたのを知ったことでバルナックの系譜の最終形は多分これ。TTLとAEを実現している?同時期に安原一式やBessa-L/Rが登場しつつあったことを考えると興味深い。https://t.co/2SQmFXeuo0
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
あ、あと今日の再読の成果で、ミノルタのRF機の最終機はミノルタスカイじゃなかった。一眼レフに社運をかけつつRFを切り捨てるわけにもいかないということで中止したスカイの普及版をミノルタ35IIIとして開発していた。しかし結局発売はされなかった。(続く)
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
それからレオタックスはGに社運をかけすぎて、まだ充分に売れていた従来機種の生産を打ち切ったところがGの生産が計画通りに行かず、つなぎ融資を頼んだのを銀行に断られたのが倒産の主因と。当時レオタックスも一眼レフ"レオフレックス"の開発中であったと。ミノルタとの紙一重の差。天国と地獄。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
Canon PかLeotax FV(またはメリット、あるいはエリート)、Tanack IV Sあたりは出物があったら触ってみないと分からんなぁ。nicca III LとかTanack V3とかLeotax Gは興味の関心からも外れるし、そこはZorki 6でいいとしよう(突っ込みが多々ありそうだけれども)。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
クラシックカメラ専科を読んでいて、一眼レフを改造してLマウント機をつくるという記事に目を見張る。しかもベースはリコーXR-8(の輸出仕様)という訳でコシナCTシリーズでやっていることがBessa-Lそのもの。98年の記事でBessa-L登場前夜。なにがしかの情報があったのだろうか。 pic.twitter.com/JMOfxp2qdK
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月27日
しかもなんだかツァイスのカメラを連想する…と、まるでのちのZeiss Ikon / ZeissIkon SWを予言するようなコメント。実際見た目はそちらに近い。今後の目標としてAEをあげているし…すごいものだ。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月27日
SR-1からミノルタスカイを再現してしまう人がいるんだから、FedやZorkiからフェイクライカを作ったりするのは結構簡単だったりするのかと錯覚する。手元のフェイクライカ(ライカI(C)型コピー)も天板やガリレオ型ファインダー、シャッターダイヤルカバーのあたり"新造"なんだよね、これが…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月28日
一眼レフ黎明期にしてレンジファインダー完成期の雑誌、広告まで面白い pic.twitter.com/KQYQXWSyIy
— (´・ω・`) (@minan_taiwan) 2017年11月29日
カメラの日ということで一部期待された向きもあるようですが、順当にいま一番興味をもって眺めているカメラの一系統の歴史を置いておきます。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
Leica A (1926)
Zorki 6 (1959)
フェイクライカ(Zorkiベース) (1990年前後)
しまったBessa-Lも入れるべきだったがもうバッテリーがない。 #カメラの日 pic.twitter.com/u76iQ5gnFm
RT ちょうどこの頃の状況を確認するため戦後バルナックコピー機で契機となったと思しき機種を買い集めている最中ですけれど、M3ショックで日本メーカーが一気に一眼レフに舵を切ったというのは眉唾な言説でM3自体傑作機であるのは確かとして本当にカメラ市場に受け入れられたかは怪しいのです。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月29日
M3が出て一気に日本メーカーが一眼レフに舵を切ったなら、どうしてM3の影響を受けた機種が続々と登場していくのかと。と同時にカメラの大衆化、低価格化が進む中で次の市場は一眼レフというのは"M3以前に"ほぼ確定していてM3というのは空母の時代への移行が明確になったあとに登場した巨大軍艦の趣が。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月29日
あー、M3が優れたカメラであることは間違いないです。もってますが恐れ多くて使えないくらいに(笑) 分相応に普段使いはFedかBessa-Lという次第です。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
同感です。そんなに言うほどライカは国内で売れてませんでしたし。レンズ交換無しの距離形式がサラリーマンの月収に近かった時代ですから。今も中古ライカがあるのは、ポルシェが廃車になりにくいのと同義ですね。
— kan (@kans1948) 2017年11月30日
残ったものから逆照射されてしまった偽史が多いな、という気がします。特に当時を知る大御所が引退されてしまったあとの90年代末期のクラカメブーム辺りにねつ造された神話が多いのではないかと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
>90年代末期のクラカメブーム辺りにねつ造された神話
— tri-chrome™️ (仮) (@tri_chrome) 2017年11月30日
検証なしに色々な人が擦ってきた伝説ですね。
まるでポエムのような話ですね。
ボクは元々カメラに対する深い知識はありませんし、歴史を見てきた感覚もあまりないですけど、中古カメラブームに多数出版された本を読むと「なんだかなぁ~」という感覚を拭えません。歴史書でも工学書でもなく圧倒的にエッセイなんですよ。なんだこれは。
— tri-chrome™️ (仮) (@tri_chrome) 2017年11月30日
ミノルタスカイの開発はM3にあこがれた開発者達がこぞってとりくんだみたいで、そこに一眼レフの影なんてかけらもない。完成したスカイを持ってアメリカに乗り込んだ社長はそこでむしろM3を出してしまったライカはもうお仕舞いだという市場の評価をみて愕然として帰り、即座に一眼レフに切り替える。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
これはM3にショックを受けて一眼レフに切り替えたって神話とはずいぶん違うだろう。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
やっぱりミノルタの社史手に入れないと駄目か。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
改めて一眼レフの技術開発史をざっくり復習したのだけれど、この歴史にM3を入れる必然性はないのではないかという印象が強まる。そしてM3が登場したことでミノルタとキヤノンはRFを強化したのであってニコンだってM3を見て開発を始めたのSPであってFではない。ペンタは最初っから一眼レフだし。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
ニコン、キヤノン、ミノルタ、レオタックス…どこも年表で事象を確認していくとM3を見てやったことはM3対抗機種の開発であってその時点で一眼レフなんて取りかかっていない。ニコンのFもあくまでメインはSPでサブの特殊用途向けとして取りかかられた気配が。それだって別にM3の衝撃などではない。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
ニコンでもキヤノンでもミノルタでもレオタックスでもない、M3の衝撃でRFから一眼レフに一斉に切り替えたカメラメーカーってどこだ。ズノーはライカコピーは試作したけれど発売はしてない。オリオン精機、旭光学と同じくカメラとしては最初から一眼レフ路線と見ていい。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
やっぱり50年代の各社の輸出向けの機種と輸出先の市場を押さえる必要がありそう。あと、当時のレンズ交換式カメラは凄まじい高級品(今で言うならライカSLとか中判デジの感覚)なのだけれど50年代を通して値段は下がっていったことも各社の経営を考えるうえで押さえておく。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
その波に乗って大成功したのがCanon P、失敗したのがS4。でもその成功がキヤノンの一眼レフ転換を遅らせ、ニコンはFで成功する。50年代を通して起こった一眼レフとRFというカメラのパラダイムの相克であって、巨視的に見るとM3という機種に着目する意味はほとんどないかも知れぬ。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
『ミノルタかく戦えり』にのってた。「孤高のM3の登場で日本メーカーは一眼レフに向かった」って。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
でも、この本
「米ではSが売れた。M3は床の間の飾りS2はプロ機」
「ミノはM3目指してスカイ作った」
「戦後日本はライカを目指した」
「ミノを支えたのは二眼とレンズシャッター機」
が混在していて…
人間の主観というのはいくらでも矛盾できるし、それぞれの記述に積極的な嘘はないのだけれど、当時の時系列において確認していく作業は大事だね。というか私も前読んだときはそれぞれの矛盾なんて意識もしていなかったよ…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
ある形態が隆盛を誇っている所に、似た別形態が生まれる。それはおもちゃ扱いされせいぜい特殊用途と見なされる。元の形態の枠内ではすごい機種が生まれたりもしている。しかしおもちゃ扱いされていた機種がある喫水線を越えた瞬間に、元の携帯の枠組みの外で圧倒的に支持され、元の形態を駆逐する。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
RFと一眼レフの話?いえ、銀塩とデジタルの話デスヨ(笑)。今いろんなものひっくり返したところでの感触はあの大転換に近い。当時のイノベーターは既に次に来るのが一眼レフ/デジタルだと気づいていた。彼らはM3を評価しなかった。変化は"業界"の外から来た。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
また別の本で、この本の記述にも眉唾なところはあるのだけれど、"孤高のM3の登場は、「いつかはライカを」と思っていたカメラファンの目をむしろレンズシャッター機や一眼レフに向けさせた"という趣旨の記述は面白いと思える。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
今年度最後の個人的課題が「M3神話の解体試論」になりそうだというのにどうしたものか。勿論M3はいいカメラですけれど。典型的な神話化と同じ過程をたどって、あとはその再話の繰り返しでディティールはどんどんそげ落ちていったというありきたりのパターンなのは目に見えている。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
あくまで個人的納得が欲しいだけだという一線を守っておかないと、Zenitとかスポルトとかキネエグザクタとかそのあたりにも手を出すことになりかねないので、それはしないと予防線を張っておく。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
いつかはライカをって人は私の世代よりもっと上ですね。私たち団塊世代以降は、どんどん出てくる国産に目が向いていました。以前に書いた通り、ライカはポルシェみたいなもの、憧れる人もいたと思いますが、「昔の超高級機≒無縁」という感じでした。
— kan (@kans1948) 2017年12月3日
個人的に納得するための「M3神話の解体試論」だけれど、そう考えると各社のM3対抗機を何か一つ触っておかないといけないのかという気もするが、タナックV3やレオタックスGはものがないし、YASHICA YFならまだ。と思ったがここはCanon 7Sかなぁ。あまり食指は動かないのだが。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
このあたりまだ全然調べていないのだけれど、YASHICA 35YLのデザインなんかはNicca III Lの系譜なんだろうか。なぜYFでこれをやらなかった…(言いがかりhttps://t.co/hEBnJyYb7S
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
そうはいっても、実はM3って結構進化のどん詰まりだったようにも思える…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
後世のマニアが書いた文章というのは、または当時の人間でも晩年に振り返った回想録の類いも、取り扱いには注意が必要だと考えている。当時の資料に当たるしかなく、また銀行の残高が減っていく…部屋のスペースもな…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
むしろM3は幻の一眼レフ、デュフレックス(絶対手に入らないだろうな)を参照していたのではないかという証明不能の推測がどこかでされていたが、一眼レフとRFの機構の相互影響史って思われている以上にずっと複雑なのかもな…とは思うが手に余る。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
M3の衝撃というのは60年代になってもっと下の価格帯のレンズシャッターRFコンパクトにつながっていったのではないかという、まだ全然調べていない思いつきをメモする。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
ごく単純な話なのだけれど、M3そのままのコピー機が出なかったのは、戦後の機種なのでライツの権利もがっつり生きているし工業デザインの保護意識も高まりつつあった(Yashica-44がローライから訴訟食らったり)という事実がなぜか技術力の問題にすりかわってないかなぁと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
ファインダー周りは特許でガチガチですし(恐らくMマウント自体も)、その莫大なコスト(高精度で多量のプリズム生産と組立)を考えても真正面からM3のコピーは作れなかったのではと想像します。
— tri-chrome™️ (仮) (@tri_chrome) 2017年12月3日
単純にNicca 5L(TOWER 国内版 1955?)の前後でM3同等の裏蓋開放・巻上レバーは達成していて、あとは一軸不回転シャッターと一眼式ファインダを搭載すればM3同等にはなる。で、キヤノンやミノルタ等の同時代機は個別に達成していたわけで。レンズシャッター機でもコニカIII Aのファインダが出ているし。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
1958年を境に高級機から普及機にRF市場の売れ筋が切り替わりつつあって、8万で売ってた機種の廉価版を6万で売るようになると。これ2万の価格差と思っちゃいけません。今の感覚で乱暴かつ少なめに換算して120万で売ってたものが90万でしか売れなくなるということです。商売のあり方がまるで変わります。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
あと、なんで当時一眼レフが海外向けだったりするのかと言えば、当時の問屋販売網というのは今からは想像できないほど(もちろん流通が未整備な時代の必然もあった)強力で、よい物をつくろうともその販売網に食い込めなければ物を売ってもらえないのです。新興メーカーには厳しく海外に販路を求めた。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
昨日の"突発イベント"発生で資料を読み進められなかったが、とにかく50年代がカメラだけでなく日本社会が大きく変わっていく時代で、世界史も勘案しつつ動きを追っていくと本当に面白い。一年ごとに各要素の動きもエキサイティングに変わっていく。既に脱線気味。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月4日
ちと資料をひっくり返していたらカメラ関係の広告が目についた。このA2の広告を出しているのがミノルタでなく浅沼商会だということの意味。このあたりの販売網の歴史を踏まえるとメーカーの興亡史はもう少し陰影を増すと思うの。 pic.twitter.com/cW7kbggyep
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年9月27日
1955年、小学校入学、6歳上の姉の当時は教科書へ墨塗り、3歳上の兄の時は生徒数のドロップ、私の時は欠食児童。
— kan (@kans1948) 2017年12月5日
低学年は街頭テレビの時代、5年に皇太子御成婚でテレビ普及、中三で衛星通信とケネディー暗殺、高校でピカソ展と東京オリンピックとカラーテレビ普及・・・凄まじい変化でした。
思ったより早く仕事が終わったので、今日届いた本とゾクゾク到着しつつある50年代RF機達。本はこれからどんどん届く。カメラもまだ届く。アカウント銘のAFカメラって距離計連動式の別称のことだったんだなと。 pic.twitter.com/Iwezwv3FAN
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
手元に到着しつつある中で巨体なのがCanon Pで、実は一眼レフベースのBessa-Lより一回り大きい。Zorki初代とならまったくサイズ感が変わってくる。その分、大きな一眼式ファインダー、巻き上げレバー、巻き戻しクランク、横開きの蝶番式裏蓋を持っている。 pic.twitter.com/iTplXYmgLG
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
あ、このTanackシャッター幕不調だ。調整できるかなぁ。ジャンク扱いだからしかたないし、全体の作りを見たかったのだから目的は果たせる。それにしても、この最後のkが"た"を模しているというロゴは本当に秀逸。 pic.twitter.com/c0Aw3POpFK
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
1955年のカメラ番付 ざっくり
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
横綱 M3(本体) → 300万円
大関 IIIf / コンタックス IIa レンズ付 → 300万前後
関脇 海外製一眼レフ(ペンタプリズム) → 100~200万
小結 海外製レンズ交換式RF機
前頭 国産高級レンズ交換式RF機 → 100~130万円
十両 国産一眼レフ(ペンタプリズム) → 80万
(続く)
幕下 国産普及帯レンズ交換式RF機 → 50万弱
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
三段目 国産レンズシャッター機 → 10万~50万
序二段 国産普及帯二眼レフ → 10~20万
序の口 国産スプリングカメラ → 10~15万
当時の1万をざっくり15万で換算。ただしこのあたりどの指標を取るかで変わる。30万で換算したがいいかもしれない。
(メモ) 50年代の画期となる箇所いくつか
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
・二眼レフ / スプリングカメラの退潮
→ 過当競争で値崩れ
・レンズシャッター機の普及
・M3登場
・高度経済成長の始まり
→ 生産環境の向上 / 四畳半メーカーの退場
→ 国民カメラ
・RF機の過当競争
・一眼レフ隆盛
M3ショックって「ライカを追っていたカメラメーカー/技術者/ハイアマチュアの受けたショック」が誇張されすぎているのではないかという印象がますます。それは凄いしあこがれも確かに読み取れるのだけれど「必要なのは大衆機の機能向上だ」と論調は至って冷静。写真工業あたりだと違うかも。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
(メモ) 50年代を考えるに、他社との仁義なき戦いのためメーカーの体力を越えた多機種・新機種・低価格投入展開で市場が荒れたという、アタリショックとかDOS/V機を思わせる展開も考慮しておく必要がありそう。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
ヤシカの50~60年代をもっと丁寧に追いたくなってきた。niccaの吸収後の技術の流れとか…うん、無理。我慢。そろそろお金がないの。時間と空間も。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
50年代面白いなぁ。一年ごとに状況、背景となる社会情勢、復興と高度経済成長、工業生産体制が変わっていくのをひしひしと感じる。既に「目指すはライカ」というのは相当の留保をつけないと意味のない言説と理解。そも「ライカを目指す」って具体的には何なのか、と。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
しかし当時レンズ交換式RF機の方がペンタプリズムとクイックリターンミラーを獲得した一眼レフよりも高級機の位置づけというのは盲点だった。と同時に、コニカ・オリンパス・ヤシカ等々のライカ路線を目指さなかったメーカーもたくさんあるわけで。RFという機構の限界を示したのがむしろM3なのではと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
そしてカメラ博物館にいけば即確認できるのだろうけれど、手元の資料から推測する限り50年代以降圧倒的な出荷数を他の形式をたたきのめして稼ぎ続けるのはレンズシャッター式のRFコンパクトと見受けられる。そして一眼レフも、50年代の半ばには既にレンズ交換式高級RF機を遙かに超える出荷数のような。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
ただし、一般ユーザーは安くて「実画面が見える」一眼レフに気づいて、高くて性能が劣る距離形式を捨てていったのです。これについては一気にいろいろなデバイスを発表して、技術的優位性を示したニコンが大きな役割を示したと思います。
— kan (@kans1948) 2017年12月6日
そのあたり、niccaの技術がYASHICAにどう移入されたのかを把握したいのだけれどとりあえずは禁欲かな。YASHICA YFは探そう…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
「技術者は皆ライカを目指した」っていうのも技術者個人のバイアスがかかりまくった話で、そも戦後に一番最初にブームを巻き起こしたのは二眼レフじゃなかったですかね、と。オリンパスの米谷さんあたりの伝記を見直していてもライカのラの字もでてこないのだけれど。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
資料収集途中だけれど、M3が日本のメーカーを一眼レフに向かわせたというのは誤謬に思えるし(全く影響がなかったとは言はないが)、高度経済成長期のカメラユーザーの広がり、もっと色んな物が撮りたいという欲望の高まりに答えられたのは機能で一眼レフ、値段でレンズシャッター機だったのでないかと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
しかし、とりあえずのところとしては「そんな一文で分かった気になれるような簡単な話ではない」というようなあたりでまとめておくのが穏当だろうか。いまでいうならアストンマーチンとかのレベルでどうこう言われても、プリウスやリーフの方が余程影響が大きいです。見たいな。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
(メモ) 50年代カメラ史捕逸
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月7日
工業生産技術の向上、高度経済成長による所得の向上が背景
・M3の衝撃を吸収し1/20の低価格で庶民に届けたのはレンズシャッター機
・各社高級RF機でM3の要素を吸収
・同時にM3対抗機を開発中
・その後ろで一眼レフ、東ドイツと競いながら急速に機能向上し、市場を確立中
背景のところで、輸出産業としてのカメラ産業が急速に確立も入れて置きたい。レンズシャッター機と一眼レフを考えるとき、海外市場の動きも押さえておかないと見間違う。90年代のクラカメ系読み物が20世紀末の状況を逆照射して50年代の状況を腐すような恥をさらすことになる。署名記事は恐い。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月7日
(メモ) 50年代カメラ史でもう少し調べる必要があること。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月7日
フィルム、感剤の発展史
→ 二眼レフ・スプリングカメラの退潮と35mmの隆盛
レトロフォーカス型広角レンズの開発
→ 一眼レフの普及に向けた、レンズ側の画期
レンズの構成にはあまり興味がなかったのだけれど改めて少し勉強の必要が出た。
ここ数日の読書傾向のせいで、これまでドフのジャンクコーナーに並んだのを見送ってきたペトリやアイレスのボロボロのレンズシャッター機は拾って修理すべきだったのではないかと煩悶している。これが新しい視点を経てうち捨てられたモノが輝いて見えるという… #幻覚
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
何の因果か帰りのドフで何か拾いました。これがEOS Kiss III 標準ズーム付(540円)やEOS 630 標準付や美品のF70(1080円)やハイマチックやキャノネット(1640円)より高い2160円というあたり。そして、今巻き上げを試してどうも壊れ他っぽいという…さっそく怨霊が出そうです(汗) pic.twitter.com/IwCtbZtEvk
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
50年代の写真誌中心にさらにいろいろ届く。まだ届くのだけれど「M3の登場で日本のカメラメーカーは一斉に一眼レフに舵をきった云々」はもう後世を逆照射した俗説認定でよさそう。この50年代の一年ごとに状況が変わりどんどん市場拡大する中での世界レベルでの興亡史はもっと面白く、活き活きしている。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
『M3凄い!』とはなっているのだけれど恐れ入ってなんかない。レンズシャッター機はどんどんM3の発想を、勿論M3の数十分の一のコストと値段で(当然仕上がりも(汗))取り込んで製品化している。この状況を見るとM3が出て高級RFメーカーが次に取り組むのはM3対抗機という方が余程納得でき、史実でもある。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
そして、もう一眼レフのあるべき姿はほぼ目の前に現れていたし、あとは誰がそれを取るかという感じ。ただ、この時点でまだスプリングも二眼レフも市場性を保っていてレンズシャッター機自体RF機なのだから、その後の急速な転換を読めたかというと…銀塩からデジタルの変化予測の外れたことを思い出す。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
ただ、この『次に来るのは一眼レフだね!』と言われている一眼レフ時代前夜の段階で機種を市場に投入していたのはレンズ交換式RF機(ライカコピー機)を作っていなかったメーカーばかりなので、この時点でもどうかなと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
(メモ・明日の課題) 縦走りの金属幕によるフォーカルプレンシャッターユニットが普及する以前のレンズシャッター式一眼レフのメーカーの流れ。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
Taron 35
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
触っている間にレバーが戻りました。どうも巻き上げレバー直下のギアが歪んでいるのかかけているのか周期的に引っかかる印象です。どっしりした金属の塊ですが、そのあたり弱点を感じる部分も。当時の35mm最安価格帯の上層あたりの位置づけ。一万三千円。今の感覚で六万弱。 pic.twitter.com/jysmmCqRsq
読み返すと90年代のクラカメ本でも、50年代の分かった人はM3からレンズシャッター機への影響や"背景の"一眼レフの勃興を踏まえて状況の遷移を記述しているのだが、全体がライカや名機を過度に持ち上げる雰囲気の中でそこにばかり目の行く読者がそのような前提の部分をどれほど受け取り得たかというと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
そして当時の資料を確認しないままの孫引きの過程で肉付けの部分が脱落し、ついでに背骨も脱落して頭蓋骨と腰が逆さまにひっついたような妙な記述が誕生するのだけれど、個々の機種やブランドのマニアはいても通史的なカメラ史に需要はほとんどなく、雑な記述は見逃されてきた。そんなところかな。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
そんなわけでM3神話の偽史性と、なぜそのような神話がせいりつしてしまったかの経緯がだいたい推測がついたのですが、自分なりに納得がほぼ得られた(追加の資料が届くので最終的な結論は保留)のでまとめる気力が失せています。これが私が余程のことがない限りまともに論文を仕上げられない理由。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
別に新しい知見を得たというのではなく50-60年代なら当たり前だっただろうことを再確認したというだけなのですよ。調べる過程は面白いのですが、結論が見えるとまとめるモチベーションがあがりません…が、ブログで呟きをまとめるなりなにか考えます。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月9日
2017年現在のAPS(IX240)フィルム 横浜編
(注 2018.01.05)
この頁は2017.08当時のAPSを取り巻く状況をまとめた頁です。情勢はその後大きく変化して「APSを使うなら今しかない!」というぐらいの状況が出来しています。 APSフィルムが期限切れであることなどはこの記事でまとめた通りなので期限付きの状況ではありますが。取り急ぎ、サークル先進写真機構のK.I.Mさんが著書の頁を公開してくださっていますので、まずはこちらをごらんくださいませ。
期限切れAPSフィルムが今でも買えることがまだ意外と知られていないようなので、私が書いたAPSフィルムコンパクト本(同人誌)の2ページをここに公開しておきます。横浜の #カメスズ さんと #チャンプカメラ さんで店頭販売しており、チャンプカメラさんではWeb通販もやってます。#APSフィルム pic.twitter.com/TZ1my8WyU1
— K.I.M@C93委託31日東"O"16b (@xkim99) 2018年1月5日
K.I.MさんのAPSカメラ本は横浜の「カメラはスズキ」横浜ジョイナス店での委託販売やご本人のブログから製本通販.comを通して購入可能です。大変な力作ですから是非手に取ってみられてください。APSに興味をもたれた貴方なら、間違いなく刺激的な作品です!
どうやら横浜方面で時空のゆがみが発生しているようです。
このところカメラ関連の自費出版等の取り扱いを広げられているカメラはスズキ 横浜ジョイナス店様で、先日のコミックマーケット92で発行された「APSフィルム一眼レフのすべて」(サークル先進写真機構)の販売が始まりました。
☆同人誌入荷情報☆
— カメラはスズキ 横浜ジョイナス店 (@camera_suzuki) 2017年8月23日
「APSフィルム一眼レフのすべて」入荷しましました📕
逆に新しい!APSフィルム一眼のことが知れる1冊です(*´∇`*) pic.twitter.com/RaLdJ060WD
どうやら #カメスズ さんで当サークル「APSフィルム一眼レフのすべて」再版分の販売が始まったようです。再版では播磨屋市蔵さんのAPSフィルム撮影ガイドが正式付録にアップデート!しかもカメスズさんではまさかのAPSフィルム販売も始まっているとか!これはもうガンガン撮るしかないね! pic.twitter.com/Svtoz7oQdT
— K.I.M@C92土(2日目)東マ18b (@xkim99) 2017年8月23日
C92で頒布された第一版には応援ペーパーを寄稿させていただきましたが、今回の第二版には巻末付録として「2017年現在にAPSカメラとAPS(IX240)フィルムでの撮影を楽しむためのTips」と題して4ページの原稿を掲載していただいています。
カメラはスズキ横浜ジョイナス店様で委託の始まった『APSフィルム一眼レフの全て』第二版に「2017年現在にAPSカメラとAPS(IX240)フィルムでの撮影を楽しむためのTips集」を寄稿しました。初版付録のペーパーとは別で、こないだブログにまとめたモノの再構成です。#カメスズ pic.twitter.com/CNwhi8q3Jr
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年8月23日
内容は前回のこのブログの記事を第二版に合わせて再構成したものです(C92の初版付録のペーパーとは別内容です)。さらにカメラはスズキさんは期限切れAPSフィルムの取り扱いを始められたようで、いま気軽に銀塩APSフィルムで撮るなら、間違いなく世界で一番恵まれた環境が、この2017年の横浜に出来しました。
「APSカメラ持ってるけど、フィルム無いでしょ?」
— K.I.M@C92土(2日目)東マ18b (@xkim99) 2017年8月23日
その懸念、横浜駅周辺なら解消されるかも?
近々 #カメスズ さんにAPSフィルム大量入荷らしいぞ!一部は既に入荷済とか。これはもうカメスズさんで買って撮って現像するしかないね!
ついでに私のAPS本も買ってくれたら嬉しいです! pic.twitter.com/xK2RqaGG9s
🎞 今あえてのAPS 🎞
— カメラはスズキ 横浜ジョイナス店 (@camera_suzuki) 2017年8月24日
期限切れのAPSのフィルムが入荷しました❣️試写済みですが色もキレイに出ていました🌈近日APSフィルムもっとたくさん入ってくる予感🤔 pic.twitter.com/ebdkgr3ap1
そこで紹介されているのがISO100のネガフィルムだったりしたので、私も含めた地方民の間に悲しみのさざ波が広がったのはご愛敬。
いいなぁ。
— tri-chrome (@tri_chrome) 2017年8月24日
しかも幻ともいえるISO 100じゃないか!
誰かおつかいしてきて..シクシク
早速撮影された方もいらっしゃいます。露出補正のデータもあげてくださっているのがありがたいところです。
Fuji APS D100-15 試し撮り
— 和合之人(わーいのひと) (@wainohito) 2017年8月23日
Canon IXE + EF 28-90mm#カメスズ #APS #film pic.twitter.com/diavddksNa
Fuji APS D100-15 試し撮り
— 和合之人(わーいのひと) (@wainohito) 2017年8月23日
CONTAX Tix#カメスズ #APS #film pic.twitter.com/zjSPMKmPYk
Fuji APS D100-15 試し撮りの写真は #カメスズ さんでデータCD化したJPEGそのままです。
— 和合之人(わーいのひと) (@wainohito) 2017年8月23日
CONTAX Tixは+1.5増感、IXEは+1.0増感。だった気がする。
さらに、なんとカメラはスズキ 横浜ジョイナス店さんは、今後大量に取り扱う意志があられるとのこと。(海外ではまとめて冷蔵品を取り扱っている店舗もありますがそのあたりになるのでしょうか?)
今回は少量のお試し入荷でございましたが、あるお客様のご協力により明日か明後日には大量入荷致しますッ👍‼️
— カメラはスズキ 横浜ジョイナス店 (@camera_suzuki) 2017年8月24日
私も青春時代はIXYを持ち歩き、写ルンです気分で遊んだものです…😌
今ならAPSのカメラは安くて良いものが手に入りやすい‼️
現像も当店で出来ます‼️
楽しみですねぇ🤗 https://t.co/qMyjaHNvhn
すでに生産が終了して使用期限も切れたフィルム達ですから、どちらにしても限られた期間の楽しみになることは間違いないですが、2017年にもなって実店舗で楽しまれるなんてことが起きるのは、あとはジャンクカゴで朽ちていくだけであった捨て値のAPS機達にとっては朗報ではないでしょうか。
この期間で少しでも、ホコリをかぶったカメラ達が往事の輝きを取り戻し、あなたにとっての思い出の一枚につながりますように。
なお、個人的にはMINOLTA Vectis S-1/S100を強くお勧めしたいです。マニュアルはサポートを引き継いでいるケンコー・トキナーからダウンロード可能です!
K.I.Mさんのこの本本当に勉強になるわー。いやーVectisは売ることになるかなーって思ってたけど、これは維持だなw https://t.co/ZSpCGU2QsX
— 和合之人(わーいのひと) (@wainohito) 2017年8月23日
横浜方面で銀塩APSがおそらく人類史上で最後の花火をあげようとしていますが、MINOLTA Vectis S-1とVシステムはとてもよいカメラなのでぜひ使っていただきたいです。なんでこのカメラだけがこんなにシステム充実しているの。もっと前に出会いたかったなぁ。 pic.twitter.com/CoYXHygAtc
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年8月23日
あと、ちょうどカメラはスズキさんにはサークルなんだかだるいさんの「ジャンクカメラでワイワイする本」が再入荷したところのようですが、これはジャンクカメラを使ってみるときに気をつけることと簡単なメンテナンスがよくまとまっているのでお勧めですよ!
おはようございます!
— カメラはスズキ 横浜ジョイナス店 (@camera_suzuki) 2017年8月25日
ジャンクカメラでワイワイする本!
入荷してます❤
レジ横の棚にございますのでぜひお手に取ってくださいませ。
(もう出版ないかもらしいのでお早めに!!!) pic.twitter.com/fk4usXm3zn
APS(IX240)フィルムでの撮影についてちょっとしたまとめ 2017年版
(注 2018.01.05)
この頁は2017.08当時のAPSを取り巻く状況をまとめた頁です。情勢はその後大きく変化して「APSを使うなら今しかない!」というぐらいの状況が出来しています。 APSフィルムが期限切れであることなどはこの記事でまとめた通りなので期限付きの状況ではありますが。取り急ぎ、サークル先進写真機構のK.I.Mさんが著書の頁を公開してくださっていますので、まずはこちらをごらんくださいませ。
期限切れAPSフィルムが今でも買えることがまだ意外と知られていないようなので、私が書いたAPSフィルムコンパクト本(同人誌)の2ページをここに公開しておきます。横浜の #カメスズ さんと #チャンプカメラ さんで店頭販売しており、チャンプカメラさんではWeb通販もやってます。#APSフィルム pic.twitter.com/TZ1my8WyU1
— K.I.M@C93委託31日東"O"16b (@xkim99) 2018年1月5日
K.I.MさんのAPSカメラ本は横浜の「カメラはスズキ」横浜ジョイナス店での委託販売やご本人のブログから製本通販.comを通して購入可能です。大変な力作ですから是非手に取ってみられてください。APSに興味をもたれた貴方なら、間違いなく刺激的な作品です!
C92新刊 サークル先進写真機構「APSフィルム一眼レフのすべて」勝手にサポートコーナー
C92がそろそろ終わろうとしています 参加者の皆様お疲れ様でした。
Twitterで知遇を得たK.I.Mさんが先進写真機構というサークルを立ち上げAPS一眼レフの全機種解説本と写真集を引っ提げて参加されていまして、そこに応援ペーパーを寄稿させていただきました。
明日頒布の同人誌には2冊共APSフィルムで撮った写真を多数掲載していますが、いずれも撮影自体はここ1年未満です。そう今でもAPSフィルムを入手し撮ることが出来るのです!更にフジの感材は優秀で10年以上前の期限切れでも中々良好に撮れます。その辺りにも注目していただきたいと思います。 pic.twitter.com/joTS8MGZKq
— K.I.M@C92土(2日目)東マ18b (@xkim99) 2017年8月11日
明日当サークルでAPSフィルム一眼レフ本をお買い上げいただいた方には、西のAPS重鎮にしてAF一眼レフ大家でもある播磨屋市蔵さん渾身執筆の応援ペーパーが付きます!私の甘い文章の脇をガッチリ締めてくださるギッシリ詰まった逸品ですので、巻末の挟み込みまでどうぞご期待ください! pic.twitter.com/jjzbsOnoVT
— K.I.M@C92土(2日目)東マ18b (@xkim99) 2017年8月11日
重鎮というのはまったくの勘違いで、ペーパーを読んでいただいた方にはおわかりの通り、私自身が最近になってあらためてAPSカメラと出会い直し、当時はほとんど触れることのなかったAPS機にこんなにも興味深い機種と撮影体験があったのかと新鮮な気持ちで向かい合っている一人のアマチュアに過ぎません。
そして以下のような投稿が流れてくるあたり、多少なりとも再評価の流れがあるものと思われるのですが、それを手放しで喜ぶには少々気になる点があり、まとめておきたいと思った次第なのです。
皆様のご要望にお応えし(?)、最近話題の期限切れAPSフィルム·127フィルムを販売いたします!!500円均一!!
— 秋葉原にっしんカメラ【夏セール開催中!】 (@nisshincamera) 2017年8月13日
店頭、レジカウンター横をご覧ください。
※大幅期限切れ商品のため、保証なし·返品交換不可となります、ご了承ください。 pic.twitter.com/xU0RSnnsa1
- お読みいただく前に
- APS(IX240)フィルムはすでに生産終了(2011年)から6年が経ち、全てのフィルムは有効期限を過ぎています。ブランドや保管状況にも左右されますが、すでに往時の性能を十全に発揮することは難しくなっていることをご承知おきください。
- IX240フィルムの再生産や他のフォーマットのフィルムからの転用は今のところ不可能で、数年以内に全て撮影不能となるのが不可避な状況です。その前に、何かの縁でAPSカメラと出会うことになった皆さんがちょっと使ってみたいなと思ったときに、なるべく往時に近いパフォーマンスで試す手がかりになればと思います。
- カメラと写真についての考えは様々です。よくわからないカメラで興味本位に撮ってみた不鮮明な結果が、自分にとって大事な一枚になることもあります。願わくはそういう機会につながりますように。
1.カメラ/レンズの入手性と考慮すべきポイント
APS規格のカメラ・フィルムが市販されたのは1996年からで、フィルムについては2011年に生産終了が発表されていますが、カメラの新機種については2000年代の早い時期に絶えています。また一眼レフにいたっては第一世代が後継機のないまま2000年にはディスコンになりつつあり、「APSフィルム一眼レフのすべて」で紹介されているカメラは現状で20年近くたっているプラカメばかりだということは知っておいていただければと思います。つまりメーカー保証はとっくに終わっていていつ壊れてもおかしくないということです。
しかし、APSが普及しきれなかったため、逆説的に35㎜機に比べて使い込まれておらず比較的状態が良いものが手に入りやすいのです。しかもフィルムがディスコンになったためジャンクコーナーの常連となっており、CONTAX Tixなどのごく一部の機種を除けば捨て値です。こういうの場合、1円・2円を争って時間を無駄にするのはとてももったいないので、ハード○フや都会のカメラ店のジャンクコーナーで適切な機種を見かけたら、お財布と相談して妥当な値段でさっさと拾ってくるのがよいだろうと思います。
ジャンクについてきにするべきポイントは、ファインダのカビ・曇り、ボディのひび、電池室の液漏れ(蓋周辺から緑の変色があらわれていないでしょうか)
一例として、以下のIX50はついこないだジャンクコーナーで拾ってきたものですが540円でした。いささか高めですね(笑)
まぁ、これがやりたかったのさ。またフィット感もよい。なに在庫から言ってまだ数年は楽しめるだろうし。 pic.twitter.com/3iyJ3FBuZx
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年8月1日
ジャンクコーナーで特に梱包などもなく、乱雑に置かれている中にありましたのが、電池を入れるとまったく問題なく動作しています。おそらくよほど(一見して明らかなヒビが入っている/電池室に液漏れがある など)のことがない限り撮影自体はできる状態だろうと思います。
レンズ交換式一眼レフとして見かけるのはおそらくMINOLTA(現 コニカミノルタ)のVectis S-1/S-100かCanon IXE/IX50が多く、NikonのPRONEA 600iがその次でぐっと下がってPRONEA Sが続くぐらいでしょうか。このあたりは店舗によってもずいぶん違うところです。
相場は数百円~3000円くらいではないかと思います。中古を探す際に気をつけるべきポイントは特に変わるものはありませんが、ざっくりポイントを書きますと以下のようになります。
*① MINOLTA Vectis シリーズ
- 完全新規マウントのVマウントを採用しているためレンズも併せて入手する必要がありますが、現状ではミラーレス機に転用するようなマウントアダプター等も一般に入手できる形では存在しないためレンズも一部を除き捨て値です。レンズも含めて防滴のため、ズームを操作する際に空気の出入りがあって一瞬引っかかりを覚えることがありますが故障や油ぎれではないので安心してジャンク箱から拾っていいです。
*② CANON IX シリーズ
- IXEのデザインは好きな人にはたまらないでしょう。専用レンズと一緒に見つかることは少ないですが、マウントはEFマウントを採用しているため、捨て値で売ってある標準/望遠レンズがそのまま使えます。
*③ Nikon PRONEAシリーズ
- 専用レンズはありますが、Fマウントレンズがそのまま使えます。ただし、Fマウントのジャンクレンズは少々お高いことがあるので、そのあたりも考慮して探すといいでしょう。PRONEA Sについては周囲で動作不能になった個体の報告が増えている印象があり、またジャンク扱いで購入して一見電源が入ってもまともに動作しない、ということも続きましたので、内部のプラパーツや電装が寿命をむかえつつあるのではないかとにらんでいます。どうしても、というときは時間はかかってもきちんと動作保証が取れているものを探した方がよいでしょう。
ざっくりした印象ですが何らかの参考になれば。レンズ一体型一眼レフのOLYMPUS CenturionやFUJI EPiONについては先ほどの通常のジャンク基準での対応で大丈夫だと思います。
2.APSフィルム(IX240フィルム)の入手性について
さて、こちらが少々難しいフィルムの入手性です。現状ではヤフオクやメルカリ等のネットオークションでの出品を狙うのが現実的ですが、高騰しています。ここしばらくでも急激に相場が上がりました。半年前なら一本600円で高いな、と思っていたのが今では1000円前後です。
これにはTwitter界隈で騒いでいた自身の言動も多少なりとも影響したところがあるのかと思わないでもないですが、逆にいえば相場が上がったからこそ次々出品が続いていて、まだまだデッドストックが眠っているのだなと今からは想像しがたい2011年ごろまでのフィルムの供給状況に思いをはせるところがあります。
以前であれば一本200円を切っていたというのが事実なのですが、これは考えようです。APS機とフィルムについては様々な事情であまり真正面からの評価がされてきませんでした。いま、あらためて多少なりとも評価がされ始めたからこそ相場が上がりつつあるととらえてみるのはどうでしょう。
当時投げ売りされていたものが、あとになって再評価され高騰するというのは音楽や絵画の世界でもよくあることです。少なくともゴッホの絵というわけではなくお小遣いの範疇で(なにせカメラとレンズが捨て値なので…)手に入るので、そこは面白い経験に投資するつもりで試すのが、安い出物を探して時間を消費するよりマシと考えるのもありだと思います。
ただ、精力的にフィルムカメラを扱っていらっしゃる店舗がデッドストックの取り扱いを始められるような気配がありますので、それを待つという選択肢もありでしょう。
なお、ハードオフのジャンクコーナーで単体108~324円で転がっていることはありますが、これは他の目的で回っているときにあったら儲けものぐらいのつもりでいくのが良いでしょう。また開封されたフィルムの保存状態はまったく期待できません。
3.選ぶべきAPSフィルム(IX240フィルム)の銘柄について
肝心の銘柄ですが、国内で手に入れられるのはフジのnexia、コニカのセンチュリア、コダックのAdvantixなどです。海外には他にもありますが、基本的にOEMと思われ、冷蔵品を謳う出品もありますが手を出すべきではありません。
そして2017年現在、なるべく十全にパフォーマンスを発揮させたいなら、選ぶべき銘柄にフジのnexiaしかありません。それもnexia 200がおすすめです。400も期限によってはありです。800はちょっとチャレンジングかもしれません。コダックやコニカのものは、その粒子の荒れを楽しむなどの目的のない限りは積極的に選ぶべきではありません。
この点、写真についてはノイズや期限切れの描写を作品作りに活かすという分野もありえます(サークル「なんだかだるい」さんの『NO SELF CONTROL』はノイズを活かした誌面作りになっています)が、これはちょっと上級コースでしょう。
- サークル なんだかだるい
適切に管理された状態で保管されたフジのnexia 200は十年落ちでも大きな問題を感じさせません。適切でないとしても一段、二段の露出補正でかなり対処できます。以下、K.I.Mさんからの追加情報です。
播磨屋さんに負けないように私からも経験情報提供
— K.I.M@C92土(2日目)東マ18b (@xkim99) 2017年8月14日
フジフイルム製APSフィルムの期限切れ度合いと実使用の個人的経験則
(常温保存だった場合)
2004~2005期限…ほとんど問題無し
2002~2003期限…+1段増し
2000~2001期限…+2段増し
フジ以外は大きく異なります
APSのコンパクトカメラには手動の露出補正がない機種が多い(Tix以外)ので、フジフイルムでも2000年期限前後のフィルムを使うのは避けた方が良いです。2002~2003期限のフイルムなら多少暗く写りますが後からの画像補正で充分対応可能です。
— K.I.M@C92土(2日目)東マ18b (@xkim99) 2017年8月14日
この情報はフィルムの保管情報によって大きく左右されるものであることはお断りしなければなりませんが、このリストの範囲のフジ製フィルムであれば「まず撮ってみたい」「試してみたい」という用途なら実用になると考えてかまいません。
また、露出補正ができない機種でアンダーになったとしても、現在の一般的なパソコン・スマホであれば、現像後のスキャン画像を補正することである程度実用範囲を広げることもできます。このあたりは時が味方してくれるようになった数少ない例、といえるかもしれません。
フジ以外の場合
— K.I.M@C92土(2日目)東マ18b (@xkim99) 2017年8月14日
コニカ(センチュリア200)…2002年期限モノで+1.5段でも厳しい写りでした。
Fnac…もともと期限不明なのですが私のモノは+2段増し以上必要でした
こちらはカズさんとK.I.Mさんによる海外製のFnac(期限表記なし)によるものですが、きちんとした保管を謳うものでもなかなか厳しい写りです。(これを表現としてあえて狙うという技も、前述のようにありはします)
FNACのIXYによる通常感度撮影です。
— カズさん@ちいさいの好き (@kazz045) 2017年8月14日
フラッシュ炊いたらそこそこイケけるけど、自然光は厳しいですね。 pic.twitter.com/nLrkjUJeUE
一応私もFnacの+2段貼っておきますね~
— K.I.M@C92土(2日目)東マ18b (@xkim99) 2017年8月14日
最初2枚は本に収録したものです pic.twitter.com/UgKB2dmwPL
これはどこかでまとめないといけないなと思い当たりましたが、自動化の進んだAPSのコンパクトカメラ(というより自動化の進んだ当時のあるセグメント向けのフィルムコンパクト全般の傾向かもしれませんが)には一部を除いて露出補正の手段がない(そのものでなくともフィルム感度等で代用可能な機能も含めて)ものが多いのです。そのため、なるべく新しめのフィルムを使うのがおすすめと言うことになりますが、フィルムの入手についてどうしても限界がありますので、とりあえず試すのであったら出てきた画像を楽しむぐらいの方がかえって面白い結果と出会える(それはAPSフィルムの本来のパフォーマンスではないでしょうけれども)のではないかと思います。
以下は私の試写です。nexia400によるものが中心ですが、私の用途では充分に写っていると言っていいと思いますが、皆さんはいかが思われますか?
この色、良い。レンズか、フィルムか。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2016年11月6日
MINOLTA Vectis S-1 + 28-80/4-5.6 + FUJI nexia 400(期限切) pic.twitter.com/Ov0kDeIMUV
こちらのフィルムは保管状態が違った別ルートのモノ。増感無しの室内手持ちでこれだけいけるか。安心して10年落ちフィルムを買い集めよう。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2016年11月6日
MINOLTA Vectis S-1 + 28-80/4-5.6 + FUJI nexia 400(期限切) pic.twitter.com/8T1tlfWWpW
EOS IX E。使ってみるとシャッターショックも小さく、実に良いカメラだった。課題はAFの甘さとやはりAPSのフォーマットの小ささを活かした専用レンズが無かったことか。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2016年11月6日
CANON EOS IX E + EF 75-300/4-5.6 III + FUJI nexia 400 pic.twitter.com/ciWxSXykll
残念だが、今日を限りにEOS IX Eにフィルムを通すことは二度と無かろう。しかし断言できる。これは良いカメラだ。とても気持ちよくシャッターの切れる、コンパクトな傑作機だ。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2016年11月6日
CANON EOS IX E + EF 75-300/4-5.6 III + FUJI nexia 400 pic.twitter.com/UH8GTtdbia
MINOLTA Vectis S-1 + 28-80/4-5.6 または APO 80-240/4.5-5.6 あるいは50/3.5 + FUJI nexia 400(期限切) pic.twitter.com/ONB8ymRQx0
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2016年11月6日
MINOLTA Vectis S-1 + 28-80/4-5.6 または APO 80-240/4.5-5.6 あるいは50/3.5 + FUJI nexia 400(期限切) pic.twitter.com/iHyyGHegi6
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2016年11月7日
夜間の手持ちでもこんな感じ(多少レベル補正)。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2016年11月6日
MINOLTA Vectis S-1 + APO 28-80/4-5.6 + FUJI nexia 400(期限切) pic.twitter.com/zAFaoiSeWD
以上。支援ペーパーの表紙に使ったのはこれです。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年8月12日
*MINOLTA Vectis S-1 + APO 80-240/4.5-5.6 + FUJI nexia 400(期限切) pic.twitter.com/bWh01SbpxN
4.現像の対応状況とスキャンデータ(フジフォトCD)利用のすすめ
さて、そんな2011年に生産終了したAPS(IX240)フィルムに興味が沸いたところで、一体現像をどうしたらよいの?という疑問があると思いますが、実はたいていのDPEではまだAPSフィルムの現像ができます。上記の撮影もすべて地元のDPEに持ち込んだものです。
実は、いまDPEに入っているフジフィルムの現像・プリント機器(デジタルミニラボシステム)であるところのフロンティアシリーズは、APSのころから更新されていません。フィルムの衰退ぶりというか、そもそもAPS規格の登場についての生臭い話になってきますが、そのあたりは触れないことにして、おかげさまでいまでも35㎜フィルムを注文するのとまったく同じ感覚でAPSフィルムの現像やスキャンを依頼することができます。
ただ、お店によってはAPSの現像に必要な機器を処分している場合もあるのでそのときは別のラボに転送されることになり、ちょっと時間がかかるかもしれません(店舗で現像していない場合のモノクロや120フィルムと一緒です)。
現像、プリントとも料金は135判と変わらない場合が大半だと思います。おそらく現像が600円前後、それとL版同時プリントで合わせて1800円ぐらいではないでしょうか。サービスデーなどでもっと安い場合ものあるでしょう。
また、現像の際お使いの方も多いと思いますが、「フジカラーCD」といってフィルムをスキャンしたデジタルデータをCDに焼いてもらえるサービスにたいていのお店は対応してるはずです。
フジカラーCD | 写真のネットプリントサービスなら【富士フイルム】
そして最近はお店独自にその写真データをお持ちのスマホ等のデジタルデバイスに転送してくれるサービスを行っている場合もあります。SNSへの投稿を考えれば一番使いやすい方法です。
APSフィルムのスキャンについては項を改めたいと思いますが、個人で行うには少々ハードルが高くなりつつあります。
国内のメーカーが出していたフィルムスキャナーにはAPS用のアダプタをオプションで使用できるものがありましたが、現在では全て製造終了しています。そのため中古の流通を探すしかありませんが、とくに後期の製品について上級機ほど高騰している現状があります。
また、ドライバーのアップデートが行われていないことから、現在のWindows 10やMac OSで使用することは難しくなっており、互換ドライバの使用や設定ファイルの書き換え、またはスタンドアローンでの専用環境の構築など、一定以上のスキルがないと利用することが難しい状況です。
また35mmや中判フィルムのスキャンついては海外製品ではまだ専用機が更新されており、よほどAPSでの撮影に本腰を入れない限りは個人でのスキャンは手を出さなくてよい領域です。
ちょっと余談になりますが、少し前に「フジのフォトCDのデータサイズが小さすぎておかしい!」というコメントが流れてきたことがあります。
たしかにフジのフォトCDは決して高解像度ではありません。もちろん製品が更新されていないから低解像度なのだというのは言えますが、しかし、ずっと写真と付き合ってきたフジという大メーカーのノウハウの蓄積はもっと素直に頼ってよいものです。それで充分市井のセミプロやハイアマの要求に応えて来たという事実をまずは信頼していいのではないでしょうか。
私たちはすでに画素数だけがてんこ盛りで実際はノイズの嵐で酷い画質のコンパクトデジタル末期の悪夢で十分に思い知らされたはずです。フォトCDのデータを元に、家庭用プリンタで適切に設定して出力したとき、え、こんなに引き延ばせるの?!とびっくりすることになると思いますよ。
前掲の写真は全てフジのフォトCDにしてもらったデータを縮小したものです。
まとめ
ざっくりしたまとめです。APSのなにがAdvanceであったのかとかそのあたりはまた別の機会に何とかするとして、とりあえず2017年8月現在に興味を持たれた皆様が挑戦してみようと思われたときに少しでも参考になれば幸いです。
2017.08.13 公開
2017.08.14 追記 (機種・現像・スキャナの対応など)
2017.08.14 追記 (フィルムの期限・撮影結果など)
ドフジャンク棚にみる普及帯コンパクト史 備忘録
最近は(全盛期に比べれば誤差の範囲とはいえ)多少なりともフィルムカメラでの撮影が盛り上がっているようで、なかでもこれまでほとんど見向きされてこなかった普及帯のプラ製コンパクトカメラが評価されているらしいのが面白いところです。
残念ながら地方在住だとそのあたりのコンパクト機にはほとんど動きがありませんが、一部実用一眼レフ(Nikon FEなど)に相場の上昇が見られるので多少なりとも盛り上がりは伝わってきているようです。
さて、巡回している近隣市町村のハード○フでも銀塩コンパクトの、それも普及帯のプラカメは投げ売りでもほとんど動きがないままですが、ジャンク棚を定点観測しているとここ50年ぐらいの普及帯コンパクトの発展史と各家庭での受容史がなんとなく浮かび上がって来なくもないので、ちょっとした整理を。
あくまで巡回しているハードオフのジャンク棚で実際に見かけた機種基準です。(一部そうでないのもあります。特に90年代後半になってくるとデジカメへの移行が始まるのでこの時期の銀塩カメラはあまりジャンク棚に登場しません。そのかわり、初期のデジカメが大量に並んでいるわけです)
(2017/07/24版)
1.ノブ巻上+目測またはRF + 単焦点+金属製
- 富士フイルム Fujica 35-M(1957)
2.ノブ→レバー(親指)巻上
3.自動露出(AE)
- OLYMPUS AUTO-EYE(1960)
- Canonet QL 17(1965)
- Yashica ELECTRO 35(1966)
4. フラッシュ内蔵+この辺でプラ素材導入開始
- コニカ Konica C35EF(1975)
5.カプセル型のレンズバリア機登場
- OLYMPUS XA(1976)
6.自動合焦(AF)
- コニカ Konica C35AF(1977)
7.自動巻上げ(オートワインダー)内蔵
- Canon AF35M (オートボーイ)(1979)
- Yashica AUTO FOCUS MOTOR(1981)
8.日付同時写し込み機構搭載
- Canon Autoboy2 QD(1983)
9.複数焦点(標準/望遠)レンズ搭載
- Canon Autoboy TELE QD(1986)
10.標準ズーム(2倍程度/パワーズーム)レンズ搭載
- Canon Autoboy TELE QD(1986)
11.このあたりでレンズ銘とF値がレンズ周りから消滅
( ブリッジカメラ登場 → 別の世界線へ )
(「写ルンです」登場(1986) → 別項へ)
12.簡易パノラマ撮影モード搭載機登場
13.撮影モード搭載機登場
- Ricoh Myport 330(1995)
( APS機登場 → 別項へ)
( 高級コンパクト機登場 → 別の世界線へ)
14.超望遠ズームレンズ搭載機登場
- PENTAX ESPIO 200(1998)
一般家庭へのコンパクト受容史を考えると本当は110カメラ、ハーフサイズカメラとディスクカメラあたりも目を配らないといけないですが、あくまで地方のハードオフジャンク棚で取ったメモってことでご容赦ください。(その割にAPSは入っているじゃないかと言われるとあれですが...)
ちょっと腰を据えてコンパクト史をまとめようとしても、現状ではなかなか資料が難しいのです。OEM関係とかになると完全にお手上げです。
これらの機種については次のサイト以上にまとまった資料は有りませんのでご紹介しておきます。
penguin-19's COMPACT CAMERA
コンパクトカメラ専門ページ penguin-19's COMPACT CAMERA