書肆萬年床光画関係資料室

写真史や撮影技術、カメラ等について研究趣味上のメモ置き場

トイデジブームを振り返って印象的だった機種を思い出す

トイデジの名機」というお題をいただいたので一晩考えてみました。

歴史的経緯をキチンと整理したわけではないのですがトイデジHOLGALOMOによるトイカメラのブームのそれとパラレルなものとして、どこまでをトイデジとするかは実はかなり難しいなと改めて思うところです。

実のところホルガやロモはソレっぽく、おもちゃっぽく作ろうとしたというわけ"ではない"ものだと考えています。敢えてそれを狙ったわけではなく、予算的な限界や生産上の経緯で描写に偏りが出たものを「遊び心のある」「個性的な描写」のものである、と「従来のカメラ/写真ユーザーの少なくともメインストリームとは違う層」が発見した視線の先にトイカメラトイデジ のムーブメントがが成立したわけです。

当時を思い起こすに、これはまぁ、ビネッティングを「周辺光量落ち=レンズの性能の悪さを示す唾棄すべきもの」過激になれば「そんな"酷い"機材で撮った"碌でもない"絵をよくも恥ずかしげもなく人に見せつけるものだ!」と言い放つような立場では、それをトンネル効果と面白がるトイデジ 的評価軸を理解できるようなことはけっして無かっただろうなぁと思います。

閑話休題。そう考えるとSuperHeadzのデジタルハリネズミもどちらかというとトイカメラの"発見された"面白さを二次的にエミュレートした機種であり本来的なトイデジとはいえないのかもしれないなどと思わなくもないのです。

そのようなことをつらつらと考えつつ、ざっくりトイデジ の名機にどんなものがあるかと記憶の底を掘り返してみるとこんなあたりが浮上するかなと。詳細は検索してみてください。当時はかなりの数が出ているので(それだけ大きなムーブメントでした)今ならまだ動作品も充分手に入るでしょう(スペックだけ見たら、なんでこんなに高いんだ!?と思われるかも知れませんが(笑))。

VistaQuest VQ1005 / VQ1015
・Vivitar ViviCam 5050

Vivicam 5050 パールホワイト VIV-5050-WHT

Vivicam 5050 パールホワイト VIV-5050-WHT

 

・トミー Xiaostyle

トミー、電池込みで111gの小型デジカメ「シャオスタイル」

タカラトミー xiao

TAKARA TOMY xiao TIP-521-MR マリーン

TAKARA TOMY xiao TIP-521-MR マリーン

 

 ・YASHICA EZ F521

新製品レビュー:ヤシカ「EZ F521」 - デジカメ Watch Watch

この他にもトイデジ ブームに乗って出てきたよく分からないグッズのようなカメラは本当にたくさんありました。今はきっと机の引き出しで忘れられているようなものたちですが、それは豊かなことだったのだと思います。

当時のブームのなかで発見されたトイデジ的な面白さの延長線上として二次的に生み出された機種まで対象を広げればこのあたりも名機と言えるでしょう。スマホではなかなか難しい体験としての面白さの見いだしうる機種達です。

・SuperHeadz DIGITAL HARINEZUMIシリーズ

www.superheadz.com


・ローライ Rolleiflex MiniDigiシリーズ

Rolleiflex MiniDigi (ミニデジ) AF5.0 レッド 24613

Rolleiflex MiniDigi (ミニデジ) AF5.0 レッド 24613

 

 ・BONZART AMPEL

 ・NeinGrenze NeinGrenze 5000T

NeinGrenze 5000T ニューリリースページ GDC(株式会社GLOBAL・DC)

Holga Digital

HOLGA DIGITAL Limited Color Neon Orange

HOLGA DIGITAL Limited Color Neon Orange

 

 

なお、シリーズ後半で迷走するPENTAX Optioシリーズの一部はヴィレッジヴァンガードにならんでもおかしくない、ある種尖った発想のモデルがあったのでそのあたりはトイデジのムーブメントでとらえても良いのかも知れません。当時のOptioの開発状況がどのようなものであったのか。どのようなマーケティングに基づいていたのかは今からでも知りたいところです。

Optioシリーズでトイカメラ的なイメージ(あくまでイメージ)と重なるモノと言ったらまずはI-10。

Optio I-10|コンパクトデジタルカメラ | RICOH IMAGING

そしてなんといってもレゴブロックを前面に装着したNB1000でしょうか。

Optio NB1000|コンパクトデジタルカメラ | RICOH IMAGING

まだ、他にも刺激的な機種がいくつもありました。

コンパクトデジタルカメラ PENTAXブランド生産終了製品 | 製品 | RICOH IMAGING

この一覧にOptio Xが入っていないのはなぜだろうと疑問を覚えたところが、K.I.Mさんから以下のご指摘をいただきまして。成る程そのとおり…

Optioの最後のあたりのチラシなどは本当に予算がないのかなぁという状況で、たとえばチラシに本体の写真がないのはデザイン上の問題としても、撮影サンプルもなく"イメージ画像"で、しかもそれが機種間で使い回されていたのを覚えています。

PENTAX Optioシリーズとトイデジトイカメラ(HolgascapeやLomography)のムーブメントの交錯するあたりに2000年一桁年代のカメラ/写真史が描けるかも知れないと思ってはいるのです。

あと、子供向けカメラの方向はフォローしていないので分かりません。機種として面白いものはいろいろあり、それなりに継続的に市場性を維持しているものとは承知していますが。

さて、ここまでで書いたようなトイデジトイカメラのムックやそれこそ定期刊行雑誌(写真誌!)に至るまで当時いくつか出版されて(それくらいのブームだったのです!)面白いのですけれど、ブーム後半までをフォローした本は一冊もないかもしれません。

今のフィルムカメラブームもそうですが、こうしてみると良くも悪くも一部の編集者・著者に偏っているなぁと。この辺りの本は多分まだ全て手元にあるとは思います(ただし倉庫の段ボールの中(汗))。

SNAP!別冊 トイデジLovers! (INFOREST MOOK スナップ!別冊)

SNAP!別冊 トイデジLovers! (INFOREST MOOK スナップ!別冊)

 

 

トイデジのアイデア

トイデジのアイデア

 

 

きまぐれトイカメラの使い方 We Love HOLGA

きまぐれトイカメラの使い方 We Love HOLGA

 

  

きまぐれトイカメラの使い方 We Love HOLGA Plus +

きまぐれトイカメラの使い方 We Love HOLGA Plus +

 

  

Holgascape―THE WORK BOOK OF HOLGA

Holgascape―THE WORK BOOK OF HOLGA

 

  

おそらくここらで紹介した機種が参考になると思われますが、どなたか夏コミに向けてテーマとしていかがですか?

追記

皆様からいくつかフォローをいただきました。ありがとうございます。

 

 

 

『カンノン』試作機の目撃譚(間宮精一による)

日中戦争突入後の1939年の「カメラクラブ」に国産カメラの特集があり別の原稿の資料として取り寄せたのですが、特集内でハンザ・キヤノンが取り上げられていて、このなかに興味深い証言がありましたので紹介したいと思います。

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戦前戦後のカメラ誌を読み比べているとむしろ戦前の方が紙質やデザインが良いことがあります。特に戦後すぐの雑誌については今後紹介することもあると思いますが、使われている紙といい、組版といい大変質が悪いのです。それが戦争の惨禍ということでもあるのでしょう。

この雑誌は1939年1月号ですから日中戦争は始まっていて既にその気配は雑誌内にも忍び寄っていますが、まだまだ戦争を感じさせるものが中心という訳ではありません。しかし、このあとほんの数年でカメラ/写真雑誌の誌面、論調はまったく違ったものになっていくのです。

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該当の証言のふくまれる特集はこのようになります。私はキヤノンについて詳しいわけではないのでひょっとしたらキヤノンファンには周知のものかもしれませんが、その際はどうかエピソードの出典のご紹介と言うことでご容赦を。

該当記事の執筆者は間宮精一で言わずと知れたマミヤ光機製作所の創業者ですが、この時期はカメラ製作への思いを胸に秘めていた彼が、いよいよその方面にむけて転進した頃になります。

さて、興味深いのが以下の部分です。

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文字に起こすと次のようになります。(旧字体新字体に、仮名遣いは現代仮名遣いに改めました)

キヤノンに対する過去の印象
確か五年程以前と記憶して居りますが、Yと云う人が、カンノン(観音)カメラと称するライカの模造品を持ち歩いて居るのを見た事があります。ほんの試作程度で至る所ハンダ付けの未商品化のものですが、工作の点やライカの特許を避ける点で相当の苦心が認められました。名称が似て居る点で現在のキヤノンと関係があるのか、無関係であるか私は知りませんが、その後一二年後にキヤノンが商品として登場しました。
(間宮精一,1939,「ハンザ・キヤノンを語る」,『カメラクラブ 昭和14年1月号』,ARS社)

1939年1月号の5年ほど前というならば精機光学研究所(=キヤノン)の創業期であり、文中に現れるこのY氏はカンノンの開発者である吉田五郎に間違いありません。

記事中では間宮はカンノンとキヤノンの関係をボカしていますが、彼がそれを知らなかったとは考えづらく、その後の吉田の放逐劇を知った上でのある種の韜晦ではないかと思われますが、とにもかくにもここで興味深いのは彼が「ライカの特許を避ける為の苦心」の見て取れる「カンノンの実機」を目の当たりにしていたことです。

キヤノン公式の記事「幻の試作機『カンノン』に込められた夢」で「その完成品を見たという人物はいない」とされるカンノンについて、少なくとも間宮精一は、先ほども触れたように動作品を実見していたということになります。もちろん何を持って『完成品』とするか、ということではあるのですが。

あと、ハンザキヤノンのいわゆる「びっくり箱ファインダー」はライツの実用新案を避けるための苦肉の策というのが定説になっていますが、パララックスの問題は確かにあるもののレンズフードと被らず見やすいという点を間宮が評価していたのは、バルナック型とそのコピー機の系譜では外付けファインダーを使うことの多い身としては興味深いところでした。

 

Fed(I)のマウント金具を交換してLマウント互換にする話 その2

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※ 以下の記事は2014年の原稿を元に再構成したものです。ソビエトのカメラ・レンズ史または写真史については国内に信頼に足る文献は少なく、伝聞に基づいた記述があることをご承知おきください。

マウント金具をFed3のものと換えてしまったのでもうFed改とでも呼んだがいいのかもしれなくなったFed(I)ですが、実写までにはまだまだ関門があります。まずはフランジバックの調整です。この時点ではフランジバックが短いと推測されるのでFed3に入っていたスペーサーも全部放り込んだのですが、デプスゲージなどは持っていないので実写で確認するしかありません。さて前ピンか後ピンというところから調整が始まるわけですが、いったい何本のフィルムを消費することになるか…

操作しやすい信頼のジュピター8を付け、被写界深度が一番浅くなるF2.0に合わせて露出の問題でF2.0は使えずF4.0で試写をします。この時点では距離計がズレていると目されるのでファインダーは使わずレンズの焦点距離の指標で合わせながら目測で撮っていきます。

その結果です。(写っているのは絞りF4で試したもの)。

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下に見えているのはメジャーです。設定した焦点距離に合わせて手製の目印を移動させながら撮っていきます。

この写真から以下のことがわかります。

  • その1
  • Fed1のフランジバックが実用と見なしうる精度では合っていること。このやり方で一発で合ったというのはかなり奇跡的な話です。追加したスペーサーは2枚で計4枚のスペーサーが入っていますから0.2mm短かったということになります。
  • その2
  • シャッター幕が酷く劣化していて張り替えが必要なレベルなこと。この写真はなるべくマシなのを選んだのですが、他のはもう漏れているというかシャワーを浴びているというか。

そこでシャッター幕については急場しのぎの対策にかかります。見ての通りシャッター幕がボロボロです。この個体はヤフオクで"美品"という触れ込みのものを落札したのですけれども、日本語の怪しい業者でこの業者は2019年現在でも出品を続けているので注意が必要です。

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海外の「美品」は"一応動いている"というレベルのことがままあります。この辺りがソビエトカメラなんてまさしく動けばいいという感覚を生み出している遠因では無いかと思われて残念でなりません。

分解した時点で見るも無残に劣化したシャッター幕は確認していました。マウント金具から覗き込んだ時点でひび割れだらけでしたら期待していませんでしたが、これはヒドい。

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光を当ててみると、お前は「シャッター幕の仕事を果たす気があるのか!?」と言いたくなる勢いで光のシャワー状態です。むしろフランジバック確認用の試写の時点でよくあの程度で済んだものだというところですがそのあたりは撮ってみなければわからないところです。

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さて、最終的にシャッター幕を張り替えるしかありませんが、当座はこの幕を応急処置でも何とかしたい。こういうときはホームセンターや100円ショップを歩きながら考えます。水漏れ防止のシーリング材でも使おうかと思っていたところ、もっと簡便なものが見当たりました。化粧売り場のマニキュアです。それも黒。ある程度の伸縮性と耐久性、それからもちろん遮光性が期待できます。なにより安い。108円です。

同じく100円ショップで買ったメンディングテープでマスキングして、なるべく薄く塗りこんでいきます。

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塗ってはヘラで薄くのばし、光をあててはまだ漏れているところを探しては埋めていくという地道な作業でしたがマニキュアの速乾性には助けられました。それにしても百均のマニキュアの溶剤の臭いは強烈で、本当にこれは化粧なのか深刻に疑問を抱くレベルです(苦笑)。

この臭いは指先にちょっと塗るだけでもずいぶん残りそうな具合で、もちろんこんな臭気を発するシャッター幕をカメラ内部に組み込むのもよくない話でしょうが当座のこととして割り切ることにします。

分解ついでにこれまで掃除していなかった巻き上げノブ周りも掃除しました。

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緑の物体は固まってしまっ古いグリスでこれがスムーズな動作を妨げています。この緑の塊をベンジンで拭いさり、新しいグリスを薄く塗ります。これだけで巻き上げ動作が軽快になります。本家のバルナックライカとは言いませんが、手持ちのカメラの中でも巻き上げの感触が気持ちのいい一台になりました。

ソビエトカメラの悪評のかなりの部分は生産後に五、六十年経った機械式カメラとしてはごく当然なレベルとしての整備不良という一言で解決するのじゃないかという印象を持っています。

試写
シャッター幕が十分に乾いたところでもう一度組み立てて距離計を調整し何枚か試写します(冒頭の花壇もそれです)。距離計の調整の手順はバルナックライカのそれと同じですので割愛します(詳しい記事が色々出てきます)。

試写用に使ったフィルムは当時常用にしていて先頃廃版になった富士のSUPERIA X-TRA 400です。レンズはFed1標準の沈胴式レンズFed(Industar-10 L39マウント互換に調整済のもの)です。

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少々褪せたような感じに写るのはこの時代のレンズの共通点ですが、この時代のレンズはそもそもカラーで撮ることを前提にしていません。実際このレンズもモノクロ撮影用のイエローフィルターがおまけについてきました。

もうすこし別のカラーネガフィルムも試してみたいところだったのですが、このあと当時お願いしていたDPEが店舗での現像受付を終了したのを受けてモノクロでの自家現像に注力していくようになっていきましたので追求はしませんでした。

最終的にはこのFed(改)は専門の修理店に依頼してシャッター幕を張り替えていただくとともにオーバーホールをしていただき現在も手元で快調に動作しています。

Fed(I)のマウント金具を交換してLマウント互換にする話 その1

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※ 以下の記事は2014年の原稿を元に再構成したものです。ソビエトのカメラ・レンズ史または写真史については国内に信頼に足る文献は少なく、伝聞に基づいた記述があることをご承知おきください。

Fed(I)のマウント(Fedマウント)について

2014年当時入手はしたものの放置していたFed(I)のボディがありました。これが初期の型というのがくせ者で意外に知られていないのですがFed(I)の初期型は所謂Lマウント(L39マウント / ライカスクリューマウント)互換ではないのです。

まずマウント金具のねじ切りが違うためLマウントレンズはスムーズに取り付けられません。そのためフォーカシングレバーがあるようなLマントレンズを付けるとレバーが明後日の位置に来てしまったりします。一時期のオークションではそういう個体がたくさん観測できました。

またやっと取り付けたとしてもそもそもフランジバックがLマウントと比べて若干短く、そのままだとピンぼけ写真を量産してしまうことになります。

これは質の悪いコピーだから精度が出ないというのでなく板金時代のライカも特に初期の機種ではレンズとボディーはセットで調整されていて、レンズが取り外せてもほとんど専用機だったというのと同じ事情のようです。

つまりライカのスクリューマウント(Lマウント/L39マウント)が確立する以前の一台一台レンズとボディをセットで個別に調整した時代の作法をそのまま律儀に導入してしまったと言えるのかも知れません。

Lマウントのフランジバックは28.8mmですが戦前のFED(I)のマウントは28.2から28.5mmの間のようでこれに経年劣化による変動が加わります。したがってこれにLマウントのレンズをつけても正常に撮影は出来ません。90年代ごろのカメラ・レンズ本には「ソビエトのレンズはどこにもピントがこない」「絞り込んだら使える」などということを平気で書き散らしたものがありました(どこにもピントがこない時点で前提を疑うべき)。現在広まっているソビエトカメラ・レンズまわりの"常識"はこのころの質の悪い記述の更に劣化コピーだったりするので注意が必要です。

といってもかなり長い期間にわたって生産されたFed1は後期(戦後)になるとフランジバックとねじ切りがライカ互換になりますし、また戦前モデルであっても中古の販売店がライカ互換に調整していたりするので、ボディを単体で入手すると適合するレンズを手に入れるのが少々手間になるのです。

先の事情で戦前モデルであればフランジバックが一律というわけではないらしく、またレンズとボディのセットを求めてもそれが最初から組み合わせられていた(キチンと撮影できる)セットとは限らないという次第で、時期的に合うはずの戦前のレンズを手に入れてもレンズ単体でLマウント互換に調整されていたりしてうまく合うものが探せないでいました。


Fed3のマウント(Lマウント互換)との交換

そういう次第でボディだけ手に入れたものの合うレンズを手に入れられないでホコリをかぶっていたのですが、あるとき手元のFed3に故障品が出て分解したもののうっかりパーツを無くして修理が不可能になってしまいました。

そこでFed(I)とFed3とのマウント金具との交換を思いつきました。上手く交換できればとりあえずLマウントのレンズを取り付けるだけはできる様になるはずです。

なお戦前のFedのフレームは真鍮のため分解すると歪み、精度が落ちていきます。かなり精度の悪くなった個体も流通しています。いずれにしろ分解は自己責任でお願いします。

さっそく分解にかかります。まずボディシェルからフレームを抜き出します。距離計連動アームの金具がくさび形のものになっているのがわかります。初期型のFedの特徴です。

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ボディシェルをマウント側から覗くと圧板の仕組みなども分かって面白いです。また、シャッター幕がかなり劣化していたことがわかってのちに応急処置を色々試しましたが最終的には修理店に相談しシャッター幕の張り替えをお願いしました。

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また"ソビエトのライカコピー機は金属ボディに直接シボ皮風の模様がモールドされて、その上から塗装されている"なんていうのも当時の適当な記述が生み出したデタラメですが、実際には樹脂が貼られていることはこの摩耗したネジ周辺からも分かります。この個体の所有者だった異国のユーザー達も散々個人で調整を繰り返してきたのだろうことを感じさせます。

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作業自体は一時間弱で交換終了です。右奥に写っているのはフランジバック調整用の紙製のスペーサーです。Fedに限らずバルナックライカの系統はこの様なスペーサーでフランジバックを調整しています。

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この写真に写っているモノはマウント全体を覆う形のモノですが、マウントのごく一部にスペーサーが噛まされている場合もあり、分解の際はどの位置にスペーサーが挟まっていたのかを記録しておかないと実写で片ボケを起こして詰みます。絶対に記録しておかなければならないポイントです。

さてこのFed(I)のフランジバックはLマウントより短いものと予想されるので、このときはマウントを取り出したFed3のスペーサーも合わせた4枚をとりあえず挿入しておきました。0.2mmをかさ増ししたことになります。

結果からいえば実はこのときはこれでちょうど良かったのですが、本来はデプスゲージなどで計りながら実際に入れる枚数を調整することになります。Aki-Asahi.comではLマウント用のPETフィルム製フランジバック調整スペーサーを販売しています。これを利用するのもよいでしょう。

aki-asahi.shop-pro.jp

フォーカシングレバーが本来の位置に納まってディスプレイ用としては充分な感じになったのが冒頭の写真です。Fed3のマウント金具のため、上から覗いたときにはちょいと空間ができるのはご愛敬ですが底蓋から覗いてみる限りで光漏れなどの問題はない様子です。

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このあときちんと撮影できるようにするためにはフランジバックおよびレンジファンダーの調整という工程がまっています。距離計カムも調整が必要になるかも知れませんが元々調整用のスペーサーを噛ませることも多いことを考えると実用上はあまり厳密に考えなくてもよいかもしれません。

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今回はここまで。

鎖 (COSINA ZEISS IKON + Canon Serenar 35mm F2.8 + FUJI SUPERIA X-TRA 400) / COSINA ZEISS IKONについて その2

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  • 撮影地:長崎(2014.01)
  • 機材:COSINA ZEISS IKON + Canon Serenar 35mm F2.8
  • フィルム:FUJI SUPERIA X-TRA 400
  • 現像データ:DPE

2000年代になって登場した完全新設計のレンジファインダーカメラ、ZEISS IKON(Zeiss Ikon)ですが、この写真を撮った2014年初頭を迎えるまでにはひっそりと生産を完了していました。大きな注目を集めたカメラのようでその実当時を振り返っても特集されたムックも一冊しか出ていないようであれば影響範囲はごく限られたものだったのだろうと思われます。 

影響という意味ではおそらく一眼レフベースの兄弟機であるBESSAの方が大きな影響を与えたのではないかと思うのですが、それはやはり登場した時期による差異が大きいでしょう。ツァイスイコンが登場したときには建前としてはともかく実態としては既にデジタルが覇権を確立することは揺るがない情勢でした。

そんな2005年にボディ単体で十数万円のレンジファインダーフィルムカメラに手を出す層というのは余程の趣味人であって、逆にその層にアピールするというのには十数万という値付けとそれに期待される、見合う質感としては信じられないかも知れないですが"安っぽすぎ"たのかも知れないと思わないでもなかったのです。

あらためて使ってみれば露出優先オートはやはり便利ではあります。BESSAと比較してシャッター音も静かだし巻き上げの感触もけっして悪くない。ただどこかで詰め方が足りないというか、部分部分はすごく良いのに総体として見たとき何故か安っぽい。ただそこで期待される質感というのは性能とは本来無関係なノスタルジーによるものでしかないのではというのも確かなのですが、ではこのカメラが本当にそういう趣味人を越えた層に届くことを目指していたカメラであるかというと疑問符がつくところなのです。

そのあたりに突っ込んだ厳しいコメントはウェブ上で飽きるほどみることができました。ただ、中古市場に殆ど出てこないし今なお高値を保っているところを見ると、当時それが届いた人のところでは実用機としてしっかり使い込まれているのではないかと思えてそれはそれで幸福なことだなぁと勝手に思っているのです。