書肆萬年床 光画資料室

写真史や撮影行為にまつわるあれこれ、またはカメラ等についてよしなしごとを放り込む納戸

『カンノン』試作機の目撃譚(間宮精一による)

日中戦争突入後の1939年の「カメラクラブ」に国産カメラの特集があり別の原稿の資料として取り寄せたのですが、特集内でハンザ・キヤノンが取り上げられていて、このなかに興味深い証言がありましたので紹介したいと思います。

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戦前戦後のカメラ誌を読み比べているとむしろ戦前の方が紙質やデザインが良いことがあります。特に戦後すぐの雑誌については今後紹介することもあると思いますが、使われている紙といい、組版といい大変質が悪いのです。それが戦争の惨禍ということでもあるのでしょう。

この雑誌は1939年1月号ですから日中戦争は始まっていて既にその気配は雑誌内にも忍び寄っていますが、まだまだ戦争を感じさせるものが中心という訳ではありません。しかし、このあとほんの数年でカメラ/写真雑誌の誌面、論調はまったく違ったものになっていくのです。

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該当の証言のふくまれる特集はこのようになります。私はキヤノンについて詳しいわけではないのでひょっとしたらキヤノンファンには周知のものかもしれませんが、その際はどうかエピソードの出典のご紹介と言うことでご容赦を。

該当記事の執筆者は間宮精一で言わずと知れたマミヤ光機製作所の創業者ですが、この時期はカメラ製作への思いを胸に秘めていた彼が、いよいよその方面にむけて転進した頃になります。

さて、興味深いのが以下の部分です。

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文字に起こすと次のようになります。(旧字体新字体に、仮名遣いは現代仮名遣いに改めました)

キヤノンに対する過去の印象
確か五年程以前と記憶して居りますが、Yと云う人が、カンノン(観音)カメラと称するライカの模造品を持ち歩いて居るのを見た事があります。ほんの試作程度で至る所ハンダ付けの未商品化のものですが、工作の点やライカの特許を避ける点で相当の苦心が認められました。名称が似て居る点で現在のキヤノンと関係があるのか、無関係であるか私は知りませんが、その後一二年後にキヤノンが商品として登場しました。
(間宮精一,1939,「ハンザ・キヤノンを語る」,『カメラクラブ 昭和14年1月号』,ARS社)

1939年1月号の5年ほど前というならば精機光学研究所(=キヤノン)の創業期であり、文中に現れるこのY氏はカンノンの開発者である吉田五郎に間違いありません。

記事中では間宮はカンノンとキヤノンの関係をボカしていますが、彼がそれを知らなかったとは考えづらく、その後の吉田の放逐劇を知った上でのある種の韜晦ではないかと思われますが、とにもかくにもここで興味深いのは彼が「ライカの特許を避ける為の苦心」の見て取れる「カンノンの実機」を目の当たりにしていたことです。

キヤノン公式の記事「幻の試作機『カンノン』に込められた夢」で「その完成品を見たという人物はいない」とされるカンノンについて、少なくとも間宮精一は、先ほども触れたように動作品を実見していたということになります。もちろん何を持って『完成品』とするか、ということではあるのですが。

あと、ハンザキヤノンのいわゆる「びっくり箱ファインダー」はライツの実用新案を避けるための苦肉の策というのが定説になっていますが、パララックスの問題は確かにあるもののレンズフードと被らず見やすいという点を間宮が評価していたのは、バルナック型とそのコピー機の系譜では外付けファインダーを使うことの多い身としては興味深いところでした。