光画図書室閉架書庫

写真史や撮影行為にまつわるあれこれを放り込む納戸。初心者向の解説書やTIPS等もボチボチ。

『新案特許 東郷堂製 明光印画紙 説明書』

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『新案特許 東郷堂製 明光印画紙 説明書』

東郷堂 ヒット号(トウゴーカメラ・ヒツト號(下図)) 添付のもの。フィルムではなくこちらは印画紙の説明書だが、こちらも明光フィルムと同様一枚ずつ紙製の撮り枠に入っていて、注意は必要ながら焼き付けから現像・定着まで自然光・人工光下で取り扱うことができた。

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永見徳太郎(1937)「東郷堂製カメラの躍進」(「カメラクラブ(1937年5月号)」ARS社)

※ 以下は「カメラクラブ(1937年5月号)」に掲載された永見徳太郎による記事である。この号の特集は「大衆カメラの研究」であり、1937年当時の大衆の写真熱とその層にむけて売られた大衆カメラの実情が取り上げられている。

※ 永見は東郷堂製カメラについて取り上げている。東郷堂は円カメラの代表メーカーとして記憶されているが、創業から7年、この頃にはより本格的な大衆カメラメーカーとして発展を遂げていた。この記事だけでなく、巻頭の覆面座談会記事「大衆カメラ研究座談会」でも東郷堂については触れられており、合わせて読むと当時の実情が浮かび上がってきて興味深い。銅座の殿様とまでいわれライカコンタックスもなんとなればローライフレックスも所有し使いこなした(当時のカメラ誌に記事を書いている)大富豪の永見が最底辺から始まった東郷堂とどのように縁を結んだのかは今後の課題だが、かえって大富豪であるからこそ(ライカコンタックス論争が実際にはそれらを所有できないファンの間で繰り広げられたらしいことと対照的に)ライツもツアイスも東郷堂もフラットに見ることが出来たのだろうか。

※ なお、文中で具体的にどのメーカーとは言っていないが当時超弩級品と言われた高価な舶来機種についてレンズにしろボデイにしろ,小住宅建設可能の代金と同じ價値があるのだから」と書いているのは、議論になりやすい当時のライカコンタックスの市場価値を考える傍証にはなるだろう。また、この場合おそらくは土地代は含まないことは述べておく。

※ 字体等は文中のものに従ったが、一部組み版ルールに従って省略された句読点を補うなどしている。あくまで個人研究用のメモである。

 

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東郷堂製カメラの躍進
永見德太郎

 本寫眞史初まつて以来の大流行が,現在である事は,誰人も異論はないであらう。人の浪には,カメラの山である。

 ところが,やゝともすれば,或は研究に,或は記録に,或は藝術を主に撮影をすることより,豪華級カメラを所有するといふ一種の物識慾と見榮坊の存在するのは,残念だ。

 商賣の爲めなら別だが,一般素人に数千圓も数百圓ものが,必ずしも入用なのであらうか。私は昭和七不思議の一つに數へたてゝいゝ位,見かけの華麗なのをアチラでもコチラでも眼にする。心臓の弱い者は顔負けするので,撮影會にも「僕のは舊式でとかこんな安いのじや」なんて,僻易の歪んだ聲をしきりに聞く。

 誰だって,襤褸より寶石の貴重さは知らうが,藝術に國境無しと同樣,慰安に何のへだゝりが有らうゾ。輕蔑視されたつて,物質慾の奴隷となつてはいけないじやないか。

 髙價品必ずしも萬能で,百點満點と過信しちやならぬ。武士は喰はねど高楊枝の氣風も大切だ。躍り出さうといふカメラ界にモロモロのサムライが外觀の優劣さに嚇かされる意気地なしじやダメだダメだ。進取的氣質を持ち身分相應なので腕を磨く方が上達の第一歩だらう。

 

メイコーC號 ●f::8 ●1/25秒 ●東郷クロームフイルム

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メイコーC號 ●夜間●寫眞電球使用●f:6.3 開放 ● 約1秒 ●東郷クロームフイルム

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 そういふ私は,何も髙價品に對し怨嗟も無く,たゞ大衆と朗かに共に手を繋結し,安價のに不自由なところが有るとしても,研究をつゞけて行き度い心願なのである。超弩級艦式と呼ばれる各種のものを数年試めしてはみたが,假に傑作を生んでも考へてみれば當然過る當然サである。レンズにしろボデイにしろ,小住宅建設可能の代金と同じ價値があるのだから。

 安價なカメラが近來増加する傾向は,カメラ知識の普及上嬉しき極みで有る。舶來品を絶對排斥する意志は私には無いが,國產奬勵に就いては大きい望みを持つてゐる。日本で,例へばコンタツクスやライカやロライフレツクスと同等のが作製されるとせば,安値だらうから使用者が激增するだらう。

 

 產品の發展しつゝある中で,注目す可き東鄕堂製カメラが躍進中なのは愉快だ。諸者の中に御記憶があらう。大衆カメラと銘打つて1圓のを店頭で聲を嗄らし宣傳を開始したその東鄕堂製が僅々7ヶ年間に澤山の種類のものを作り,優秀な然もスマートで一見豪華級に變りなく,其上獨創豐かなのを最近發表してゐるので,筆者はある時會社首腦部に其譯を聞くと一般大衆の要求に應じ,大衆向カメラを作る念願で,初期のカメラを何時迄も作るといふ事に滿足せず,眞の大衆向のため20圓,30圓といふ初期から見れば高價品に迄發展し,今後ドシドシ邁進する方針であるといふ樣な話であつた。

 

メイスピー3號 ●f:6.3 ●1/25秒 ●東鄕クロームフイルム

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メイスピー3號 ●f:6.3 ●1/25秒 ●東鄕パンクロフイルム

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 初期のはシヤツターには充分と言ふ事が出来なかつた。又鏡玉も暗かつたが,今や面目を改め T. B. 1/25,1/50, 1/100等で普通不便を感じなく正確になり,レンズもf:4.5 焦點距離50.nmが作られ,使用して「ほゝツ」と驚嘆せぬわけにはいかぬ目ざましき進歩である。

 アンスコ判よりやゝ大きいメイコーカメラの市販より間もなく, ライカ判よりやゝ大きいメイスピーの登場「何んだ東鄕」と笑つた人達にも, 侮りがたい强味を近來示して來た。

 メイスピーの外觀は美麗, カメラレンズとフアインダーレンズの2個がつき, 機體上部にはピントグラスさへあるばかしでなく, 透視フアインダーも備へられライカやコンタツクスおまけにローライを混同した形式に似, 速寫にも便利であるから頼もしい。

 最新型のは近接撮影補助レンズが取外し自由に, 水準器の蓋になつてゐる等は, 如何に些細な部分にも, 神經を忠實に使つてゐるかが分らう。速寫ケースに入れ颯爽と携帯する時は, 是が破格廉價なので有るのかと, 再び驚かされるであらう。

 そのカメラ用フイルムも一段の良さを加へ, 殊にパンクロはオーソパンタイプで, 感光度も速く, 中々優秀である點は私も認め得るのである。

 附屬品にはフイルター, 三脚, 現像液, タンク, 引伸機其他一通り揃へられ, 何の不便もなく, 昔日の東鄕堂製カメラにあきたらなかつた連中には,現在のメイコー・カメラとメイスピー・カメラは,格段の相違で有るかがハッキリしやう。

 

メイスピー3號 ●f:8 ●1/100秒 ●東鄕クロームフイルム

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 鄕堂製カメラの特異さは,白晝現像が簡單に行はれるので,素人でもスグ使用法はおぼへられやう。都市には同社直營の販賣所が設けてあるから,其處へ馳けこめば,撮影から現像,引伸迄叮嚀に教へてくれる。

今日型の東郷堂カメラは,我が寫眞界に於て注目していゝと思ふのである。

 私は昨年,江之島で同社主催撮影會に参加し,意外に思ったのは,知識階級が多かつた事,又あらゆる階級をフアンに持つ等で,當日朝からの雨にもかゝはらず百の會員が皆ズブ濡れになつて熱心で,その上松竹の人気男女優モデルを狙ふにも,我勝ちと爭ふやうな人を見かけなかつたのを,今でも嬉しい思ひ出としてゐるのである。そして名作を連發してゐる作家や,知名の方々も多く混じつてゐられたので,同機の將來の爲め心強しとしたのであった。

 

 衆向カメラに着眼しないで,いたづらに高價品を羨望するのは,却って新時代に取り残されるとしても仕方がないのである。

 東郷堂製に限らず,割安品にとても優良なのが全寫壇に光り輝き初めつゝあるのを,ウッカリ見落すのは損であらう。

 よい寫眞を得るには,要するに値段の高下に拘らず實驗に愼重であれば,傑作を爲し與ふわけである。

永見徳太郎 1937 「東郷堂製カメラの躍進」
(出典「カメラクラブ(1937年5月号/第2巻第2号)」ARS社,pp.22~23)

(編集メモ)永見徳太郎 写真誌等掲載記事(カメラ・写真関連)一覧

※ 以下は永見徳太郎の上京(1926年)後に、カメラ・写真誌を中心に、ときに総合誌に掲載された中で主にカメラ・写真に関する記事を抜き出したものである。一部、個人的な関心で長崎に関する記事や詳細不明の記事も載せているが、基本的にはそれらは省略している。従来の伝記作家の視界の外にあった部分で年譜の最後のあたりで「体調を崩したか」などとされていた空白部分であり、今後充実させていくことで永見の上京後の精力的な活動と彼の活動を通して浮かび上がる昭和の写真史があると考えている。

国会図書館デジタルアーカイブを参照している。ある程度は実本が手元にあるが、国会図書館のインターネット送信の対象となっていない記事については内容が確認できていない。

※ 編集中(2021/01/06)のものであり、抜けが多い。「カメラクラブ」(ARS)、「趣味」(趣味社(東郷堂))、「東郷堂通信(東郷通信)」(東郷堂)にも執筆記事や作品の掲載が多数ある。ある程度は収集しているので、単著も含め、今後拡充していく。

※ 充分に追えていないが、歌舞伎座やその他の舞台においての彼の職業カメラマンとしての撮影仕事も今後発掘が進むことが期待できるのではないかと思われる。 

※ そしてこの先、長崎歴史文化博物館に収蔵されている尺牘集(※書簡集)は上京前のもの、とのことだが同時に上京後の書簡も保管されているとのことで、それらの整理から終戦から失踪までの間の彼の活動がなにがしか浮かび上がってこないかということを期待している。

1928

・アサヒカメラ 5(4)(25),朝日新聞出版, 1928-04

 記事 寫眞珍談(一)/永見德太郞 / p387~389

・アサヒカメラ 5(5)(26),朝日新聞出版, 1928-05
 寫眞珍談(二) / 永見徳太郞 / p510~511

中央公論 43(6)(485),六月號,中央公論新社, 1928-06-01
 ペーロン/永見德太郞 / 89~92

・アサヒカメラ 6(1)(28),朝日新聞出版, 1928-07
 記事 寫眞珍談(4) / 永見德太郞 / p84~87

・アサヒカメラ 6(3)(30),朝日新聞出版, 1928-09
 記事 寫眞珍談(5) / 永見德太郞 / p309~310

中央公論 43(11)(490);十一月號,中央公論新社, 1928-11-01
 關西美食祿/永見德太郞 / 209~217

・歌舞伎 第4年(12)(47),歌舞伎出版部, 1928-12
 毛剃の史實 / 永見德太郞 / p78~79

1932

東京堂月報 19(12),9月號,東京堂, 1932-09
 ブック・レヴィユーから 坪内博士の高著『歌舞伎画證史話』/永見德太郞 / 34~

・アサヒカメラ 16(6)(93),朝日新聞出版, 1933-12
 上野彦馬 / 永見徳太郎 / p595~597

1934

・アサヒカメラ 17(1)[(94)],朝日新聞出版, 1934-01
 上野彦馬 / 永見德太郎 / p105~107

・カメラ、 ARS社, 1934-04
 「写真に縁ある流行唄」

 ・アサヒカメラ 18[(1)][(100)],朝日新聞出版, 1934-07
 第三特輯 名士アマチユア傑作集 新緑の日本アルツス / 永見德太郎 / p128~129 

・アサヒカメラ 18(2)(101),朝日新聞出版, 1934-08
 舞台寫眞の研究 / 永見德太郎 / p212~214

・アサヒカメラ 18[(3)][(102)],朝日新聞出版, 1934-09
 寫眞放談 / 永見德太郞 / p382~383

・アサヒカメラ 1934-10
 「帝都夜間撮影記」

 ・アサヒカメラ 18(5),朝日新聞出版, 1934-11
 特輯 露出の祕訣 顯微鏡寫眞の面白味 / 永見德太郎 / p551~564

 ・オール女性 昭和9年4月号 表紙・島崎蓊助に寄稿あり

1935

・写真月報 40(1),写真月報社, 1935-01
 文壇フオトグループの誕生 / 永見德太郞 / p108~114

・アマチユア・カメラ 4(2)(38),玄陽社, 1935-02
 コダツクヂユオ六二〇の試寫 / 永見德太郞 / p123~125

・アマチユア・カメラ 4(3)(39),玄陽社, 1935-03
 花談議 / 永見德太郞 / p168~172

・旅 12(4),新潮社, 1935-04
 カメラは與太る/永見德太郞 / p72~73

・アマチユア・カメラ 4(6)(42),玄陽社, 1935-06
 初夏の伊豆大島行 / 永見德太郞 / p371~374

・アマチユア・カメラ 4(7)(43),玄陽社, 1935-07
 長崎バツテン初期時代の私 / 永見德太郞 / p474~476

・旅 12(8),新潮社, 1935-08
 能登の海女達/永見徳太郎 / p144~147

・総合文化雑誌「大和」第1巻第2,3号 大和発行所に寄稿有り

1936

・アサヒカメラ 21(1)(118),朝日新聞出版, 1936-01
 繪畫に現はれた寫眞 / 永見德太郎 / p116~119

・アマチユア・カメラ 5(2)(51),玄陽社, 1936-02
 特輯 最近の一般寫眞界の興隆とアマチユア寫眞熱の勃興について(二) / 福原信三 ; 堀口敬三 ; 永見德太郞 ; 岡利亮 ; 塚本閣治 / p108・124~

・明朗 (5月號),信正社, 1936-05
 カメラを通して見た藝術家 / 永見德太郞 / p271

・明朗 (5月號),信正社, 1936-05
 アマチユア放言 / 永見德太郞 / p699~702

※ カメラ・クラブ創刊

1937

・カメラ 18(1)(187),アルス, 1937-01
 ローライの夜間撮影と補力現像 / 永見德太郞 / p80~82

・ペン 2(1),三笠書房, 1937-01
 カメラの選び方 / 永見德太郞 / p90~93

・アサヒカメラ 23(1),朝日新聞出版, 1937-01
 強力現像の威力 舞台寫眞の結果 / 永見德太郞 / p213~216

・雄弁 28(1);新年特大號,大日本雄弁会講談社, 1937-01-01
 新しき家寶/永見德太郞 / 165~165

・実業の日本 40(3),実業之日本社, 1937-02
 カメラは高級品でないといけないか / 永見德太郞 / p62~63

・アマチユア・カメラ 6(2),玄陽社, 1937-02
 カメラの善用惡用――爐邊讀み物 / 永見德太郞 / p145~147

・アサヒカメラ 23[(3)][(132)],朝日新聞出版, 1937-03
 記事 アーテイスト達の一瞬間 / 永見德太郞 / p559~563

・アサヒカメラ 23(4)[(133)],朝日新聞出版, 1937-04
 續アーティスト達の一瞬間 / 永見德太郞 / p814~816

・上方 (77),上方郷土研究会, 1937-05
 サツマとヒウガと其他/永見德太郞 / 5~

・いのち 5(5),光明思想普及會, 1937-05
 大衆向カメラで樂しむ / 永見德太郎 / p220~224

・アサヒカメラ 24(1),朝日新聞出版, 1937-07
 續々アーテイスト達の一瞬間 / 永見德太郞 / p145~147

・カメラ 18(8)(195),アルス, 1937-08
 舞臺寫眞でよくやる縮尻 / 永見德太郞 / p163~165

・アサヒカメラ 24(2),朝日新聞出版, 1937-08
 盛夏凉風寫眞術 昔は寫眞を何と言つたか / 永見德太郎 / p404~407

・アサヒカメラ 24(4)(139),朝日新聞出版, 1937-10
 古寫眞ものがたり / 永見德太郎 / p648~651

・アサヒカメラ 24(5)(140),朝日新聞出版, 1937-11
 古寫眞モノガタリ / 永見德太郎 / p785~787

・アサヒカメラ 24(6)(141),朝日新聞出版, 1937-12
 古寫眞ものがたり / 永見徳太郎 / p920~922

・書物展望 7(12)(78),書物展望社, 1937-12
 寫眞新聞 / 永見德太郞 / p24~29

 1938

・カメラ 19(1月號)(200),アルス, 1938-01
 夜間撮影の失敗防止法 / 永見德太郞 / p39~41

・アサヒカメラ 25(1)(142),朝日新聞出版, 1938-01
 虎笑五題 / 永見德太郞 / p106~107

・カメラ 19(3月號)(202),アルス, 1938-03
 咲いた咲いた櫻の花が / 永見德太郞 / p260~261

・アサヒカメラ 25(3)(144),朝日新聞出版, 1938-03
 愉快な記念寫眞 / 永見德太郎 / p438~440

・アサヒカメラ 26(1)(148),朝日新聞出版, 1938-07
 女形扮裝寫眞笑話 / 永見德太郞 / p115~116

・アサヒカメラ 26(2)[(149)],朝日新聞出版, 1938-08
 尾上菊五郞丈寫眞美談 / 永見德太郞 / p334~335

・カメラ 19(12),アルス, 1938-12
 幽靈寫眞を撮る / 永見德太郞 / p600~601

 1939

 

写真サロン13号(1)/玄光社
 室津と赤穂」

・アサヒカメラ 27(1)(154),朝日新聞出版, 1939-01
 偲べ聖戦其舞台劇 / 永見徳太郞 / p104~106

・カメラ 20(4),アルス, 1939-04
 忠君愛國劇を寫すには / 永見德太郞 / p466~469

・カメラ 20(9)(220),アルス, 1939-09
 どの座が舞臺撮影を許すか / 永見德太郞 / p352~354

・アサヒカメラ 28(4)(163),朝日新聞出版, 1939-10
 秋の撮影旅行異聞 / 永見德太郞 / 697~698

1940

・カメラ 21(1)(224),アルス, 1940-01
 迎春祈世 / 永見德太郞 / p114~117

・旅 17(4),新潮社, 1940-04
 櫻二題/永見德太郞 / p56~57

・カメラ 21(4)(227),アルス, 1940-04
 下田と寫眞の因縁 / 永見德太郞 / p414~417

・旅 17(5),新潮社, 1940-05
 旅に出た下岡蓮杖/永見德太郞 / p76~78

・政界往来 = Political journal 11(6),政界往来社, 1940-06
 カメラ雜音 / 永見德太郞 / p230~232

・写真新報 50(9),写真新報社, 1940-08
 樂屋裏秘帖 / 永見德太郎 / p6~8

・カメラ 21(11)(234),アルス, 1940-11
 村童と子供 / 永見德太郞 / p504~506

1941

・黒船 18(7),黒船社, 1941-07
 私の舞台寫眞 / 永見德太郞 / p24~25

・國民演劇 1(6),牧野書店, 1941-08
 舞臺寫眞の撮影 / 永見德太郞 / p114~118

・黒船 18(11),黒船社, 1941-11
 第二回寫眞展目録 / 永見德太郞 / p21~23

1942

サンデー毎日 昭和17年5月10日号,大阪毎日新聞
 ヒンヅー教の祭礼

1943

・旬刊 美術新報 第65号 昭和18年7月上旬号 ヂォットオと北宗画
 黄檗僧と北宗画

・旬刊 美術新報 第50号 昭和18年2月上旬号 アフリカ美術・南蘋派
 長崎の沈南蘋派

 

永見徳太郎 1932 『珍しい写真』粋古堂 序文

永見徳太郎が1932に粋古堂より出版した『珍しい写真』の序文を起こしました。

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永見徳太郎(1950年 逝去)の著作権はあらゆる意味で切れており、また国会図書館の公開する「インターネット公開(保護期間満了)」にあたるデータですので公開に問題ありません。

彼はこの序文の中で「日本で最初に個人での写真集(写真画集)を出したのは自分だ」と言っていますが、これは「写真集とは何か」を含めて議論になるところです。

一応、本文を尊重して旧字体歴史的仮名遣いで起こしていますが、現代仮名遣いになっている部分などミスがあったらすいません。(※ 現代仮名遣い版もつくりました)

あくまで自分用のメモです。利用はご自身の責任にてお願いします。

なお、本文中の形式段落頭の字下げは改行にて代用しています。ご了承ください。

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日本に於ける寫眞發達の正確な歴史が、未に不完全で、たゞ斷翰零墨に依って、僅かにつなぎ合せた感が、私の少年時代よりつゞいて居る事を遺憾に思ふて居るのである。

その未完成の物を完成したいといふのが、永年の私の希望で、現在でも努力をしてゐるのであるが、實は、寫眞に對しては、妙な因縁が絡つてゐる譯があるのである。

私は、少年時代に寫眞術に熱心であつた。そうして自分で言ふと可笑しいが、藝術寫眞の黎明期に於て、朦朧寫眞を好んで製作し、當時は、ほんの一部に歡迎をうけたが、此のフオーカスは、非常な勢ひをもつて其の後流行して居るのである。其に又、個人の寫眞畫集を發行したのも私が日本最初であつた。寫眞術には自分自身關係があつたばかりでなく、私の家は、和蘭陀屋敷の貿易品を取扱つてゐたので、西洋藥種の賣買もしてゐたことがある。その中に、寫眞術に必用な藥品があつたのは述べる迄もないであらう。

その上、私の生れた故郷が異國情調の長崎港で、日本最初の寫眞が傳はつた土地柄だけに、多くの寫眞家が輩出したのであつた。その中でも、上野彦馬と内田九一の兩先生は、先覺者中の偉才に違いない。

其内田先生が、私の遠縁にあたり、又上野先生には、幼年の頃撮影をして戴いた思ひ出もある。と言ふ様な繋であるから、私は「日本寫眞史」を完了せねばならぬと考へてゐる如く、私を其著者 として適任だと推奨して居る知人も多い様な次第である。
 
少年時代に、古い寫眞が、何んとなく私を引付けたのが動機となつて、今日迄蒐集した年月の春秋が二拾數回を重ね、古寫真が約萬葉に達せんとしてゐるのである。

寫眞鏡は、生血を吸ふとか、切支丹伴天連の法だ等と抱腹絶倒時の物より、日清戰爭後までのを一々手に取つて眺めると、維新時代の空氣も、文明開化の臭ひも、昔の風景をす懐かしみも、此寫眞の力ではなくて、何んぞやと叫びたくなる位だ。

開國の大政治家、國運を背にして洋行した使節、颯爽たる勤王の士、剽悍な英雄豪傑、蘭學を學んだ青年、窈窕たる美女、モーダン女性、洋妾の風俗、梨園界名人の型、頽廢せる建物、國を護った軍艦やニユース式事件等々々を、眼の前に見、展開し盡すのは此の寫眞で、百萬の文獻よりも、貴重なる國寶的價値の多い點は、此處に論ずるまでもない。

だが、此資料を私一人で保存する時には、年代の經過と共に、印畫紙の色は消へ、破損、紛失の惴があるから、所藏中の最も珍らしい部分を撰び粋古堂主人より熱心に刊行を懇請せられたので、出版を承諾したのである。

此種の刊行は、大量的性質でなく、至つて小數な物である上、利益の如きは殆んど無く、學界に好事家諸氏に滿足を得られる事を得ば、私としては大きな喜びなのである。

幸ひ、諸氏の支持をうける事を得るなれば、第二、第三輯として續々出版をしたい覺悟と用意を持合せてゐる。

編中、年代順でないのは興味中心と印刷の都合である。解説は第三輯發行の際巻末にまとめて掲載することにした。尚本寫眞は原寫眞の味を保存するため全部原寸のまゝ製版したことを御承知ありたし。

昭和七年早春の日
夏汀 永見德太郎

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(新字・現代仮名遣い版)

※原文では漢字表記でも付属語、補助語は基本的にひらがなに直しています。

※逆に漢字に直した方が良いだろう自立語もありますが、そこは適宜判断しています。

※ あくまで読解用の参考資料ですのでご承知おきください。

 

日本における写真発達の正確な歴史が、未に不完全で、ただ断簡零墨によって、僅かにつなぎ合せた感が、私の少年時代よりつづいていることを遺憾に思っているのである。

その未完成の物を完成したいというのが、永年の私の希望で、現在でも努力をしているのであるが、実は、写真に対しては、妙な因縁が絡まっているわけがあるのである。

私は、少年時代に写真術に熱心であった。そうして自分で言うとおかしいが、芸術写真の黎明期において、朦朧写真を好んで製作し、当時は、ほんの一部に歓迎をうけたが、このフォーカスは、非常な勢いをもって其の後流行しているのである。それにまた、個人の写真画集を発行したのも私が日本最初であった。写真術には自分自身関係があったばかりでなく、私の家は、和蘭陀屋敷の貿易品を取扱っていたので、西洋薬種の売買もしていたことがある。その中に、写真術に必用な藥品があったのは述べるまでもないであろう。

その上、私の生れた故郷が異国情緒の長崎港で、日本最初の写真が伝わった土地柄だけに、多くの写真家が輩出したのであった。その中でも、上野彦馬と内田九一の両先生は、先覚者中の偉才に違いない。

其内田先生が、私の遠縁にあたり、また上野先生には、幼年の頃撮影をしていただいた思い出もある。というようなつながりであるから、私は「日本写真史」を完了せねばならぬと考へているごとく、私をその著者 として適任だと推奨している知人も多いような次第である。
 
少年時代に、古い写真が、なんとなく私を引付けたのが動機となって、今日まで収集した年月の春秋が二十数回を重ね、古写真が約一万葉に達せんとしているのである。

写真鏡は、生血を吸うとか、切支丹伴天連の法だなどと抱腹絶倒時の物より、日清戦争後までのを一々手に取って眺めると、維新時代の空気も、文明開化の臭いも、昔の風景を残す懐かしみも、この写真の力ではなくて、何んぞやと叫びたくなるくらいだ。

開国の大政治家、国運を背にして洋行した使節、颯爽たる勤王の士、剽悍な英雄豪傑、蘭学を学んだ青年、窈窕たる美女、モーダン女性、洋妾の風俗、梨園界名人の型、退廃せる建物、国を護った軍艦やニュース式事件等々々を、眼の前に見、展開しつくすのはこの写真で、百万の文献よりも、貴重なる国宝的価値の多い点は、ここに論ずるまでもない。

だが、この資料を私一人で保存するときには、年代の経過と共に、印画紙の色は消え、破損、紛失の怖れがあるから、所蔵中の最も珍らしい部分を撰び粋古堂主人より熱心に刊行を懇請せられたので、出版を承諾したのである。

この種の刊行は、大量的性質でなく、いたって少数な物である上、利益の如きは殆んどなく、学会に好事家諸氏に滿足を得られることを得ば、私としては大きな喜びなのである。

幸い、諸氏の支持をうけることを得るなれば、第二、第三集として続々出版をしたい覚悟と用意を持合せている。

編中、年代順でないのは興味中心と印刷の都合である。解説は第三集発行の際巻末にまとめて掲載することにした。なお本写真は原写真の味を保存するため全部原寸のまま製版したことを御承知ありたし。

昭和七年早春の日
夏汀 永見徳太郎

 

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