書肆萬年床光画関係資料室

写真史や撮影技術、カメラ等について研究趣味上のメモ置き場

永見徳太郎(1928.06)「寫眞雜考(二)」(写真雑考 2)(「明治文化研究 第四巻第六号」)

解説

三省堂の「明治文化研究」に掲載された永見徳太郎上京後の初期の仕事。写真雑考ということで、「写真に関する著書」「徳川慶喜と写真」「写真代金」「開業した外国写真師」「写真の抗議」という五つの小見出しが冒頭に掲げられているが最後の「写真の抗議」は本文にはない。続編にあるのだろうか。まだ確認していないが連番であるから前後の号にいくつか掲載記事があるものと思われる。

次の七号の国会特集号広告に「国家議員候補者列伝を手にして」の題で永見執筆記事の掲載予告があるがあまりに記事が多くなったことで分冊するということで掲載されず。分冊した分の記事について掲載が予告された9月号に当該記事の掲載があるかは今後の課題。

著名な人物や有名な資料から今ではよく分からない人物や書名までが登場するが、一部の外国人のカタカナ表記が現在と違うのは注意。頻出する「ビワト」は「フェリーチェ・ベアト」のこと。また、冒頭に登場する”大牛葉而列(ダギユエルレ)”は櫻所散人という人物のまとめた「印象啓徴」という書物に登場する表記と思われるが、文脈からいってダゲールのことである。

ja.wikipedia.org

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和蘭博士ジヲスコリデスなる人物が出てきて、はて?と首を傾げたところこの方のペンネームらしく。

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ハルティングの今でいうならSF小説『西暦2065年』を近藤眞琴が訳したのが日本最初の翻訳SF小説『新未来記』で、この明治初年の訳文のなかに写真の発明が簡潔に記されているとのこと。

また後半部について、この当時写真師は有名人の写真を撮った場合はそれを焼き増しして売っていて(のちのいわゆるブロマイド写真)それが大人気であったというのを念頭においておくと分かり易いかと。ある種のメディア的な役割も担っていたわけだが、海外では既に当たり前であったにしろ、封建国家の最高権力者の写真を撮ってそれを売ろうと広告を出したのはさすがに物議を醸すことになる。

まさに雑多な写真エッセイという所で今だから興味深く読めるところも色々あり他の掲載号もおいおい探していく。

* なるべく原文のままに起こしていますが、一部書体や繰り返し記号、割り注などPC上では表しにくい部分、漢文に施された訓点、行末の句読点の省略などは適宜補い、または省略していますのでご承知おきください。あくまで個人の研究用のメモです。

* 2022/01/23 田浦ボンさんのご指摘を受け誤入力等を修正

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(2022/01/07版)永見徳太郎 写真誌等掲載記事(カメラ・写真関連中心)類 一覧

このリストは更新終了しました。新版をご覧ください。

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以下は永見徳太郎の主に上京(1926年)後を中心に、カメラ・写真誌、ときに総合誌に掲載された中で主にカメラ・写真に関する記事を抜き出したものである。一部、彼の評伝的な関心で長崎に関する記事や詳細不明の記事も載せている。

従来の伝記作家の視界の外にあった部分で年譜の後半で「体調を崩したか」などとされていた空白部分である。今後充実させていくことで永見の上京後の精力的な活動と彼の活動を通して浮かび上がる昭和の写真史があると考えている。

なお、この時期を中心とした彼の活動で従来の伝記作家が見逃しているのは何も、カメラ・写真にまつわる活動だけでないことは述べておく。

旧来の評伝が、長崎との関わり、また芥川や菊池のとの関わりに傾いていることが後半生の記述の薄さにつながっている。それを補完するための作業である。あるいは、戦時中の永見の活動が見ようによっては時局におもねったととらえられかねないことへの曲筆もあったのではないか。それは永見という人間のありかたを帰って歪めるものであろうと思われる。

かなりの部分で国会図書館デジタルアーカイブを参照している。ある程度は実本が手元にあるが、国会図書館のインターネット送信の対象となっていない記事については内容が確認できていない。

編集中(2022/01/05 現在)のものであり、抜けが多い。「カメラクラブ」(ARS)、「趣味」(趣味社(東郷堂))、「東郷堂通信(東郷通信)」(東郷堂)、「AMATURE CAMERA(紀文閣・玄陽社)」に執筆記事や作品の掲載が多数ある。ある程度は収集しているので、単著も含め、今後拡充していく。

充分に追えていないが、歌舞伎座やその他の舞台においての彼の職業カメラマンとしての撮影仕事も今後発掘が進むことが期待できるのではないかと思われる。 

そしてこの先、長崎歴史文化博物館に収蔵されている尺牘集(※書簡集)は上京前のもの、とのことだが同時に上京後の書簡も保管されているとのことで、それらの整理から終戦から失踪までの間の彼の活動がなにがしか浮かび上がってこないかということを期待している。

1928

・アサヒカメラ 5(4)(25),朝日新聞出版, 1928-04

 記事 寫眞珍談(一)/永見德太郞 / p387~389

・アサヒカメラ 5(5)(26),朝日新聞出版, 1928-05
 寫眞珍談(二) / 永見徳太郞 / p510~511

明治文化研究,三省堂,1928-06(第四巻第六号)に「寫眞雑考(二)」

 ※なお、次の七号の国会特集号広告に「国家議員候補者列伝を手にして」の記事の掲載予告があるがあまりに記事が多くなったことで分冊と謂うことで掲載されず。分冊分の掲載が予告された9月号に掲載があるかは今後の課題。

中央公論 43(6)(485),六月號,中央公論新社, 1928-06-01
 ペーロン/永見德太郞 / 89~92

・アサヒカメラ 6(1)(28),朝日新聞出版, 1928-07
 記事 寫眞珍談(4) / 永見德太郞 / p84~87

・アサヒカメラ 6(3)(30),朝日新聞出版, 1928-09
 記事 寫眞珍談(5) / 永見德太郞 / p309~310

中央公論 43(11)(490);十一月號,中央公論新社, 1928-11-01
 關西美食祿/永見德太郞 / 209~217

・歌舞伎 第4年(12)(47),歌舞伎出版部, 1928-12
 毛剃の史實 / 永見德太郞 / p78~79

1932

東京堂月報 19(12),9月號,東京堂, 1932-09
 ブック・レヴィユーから 坪内博士の高著『歌舞伎画證史話』/永見德太郞 / 34~

・アサヒカメラ 16(6)(93),朝日新聞出版, 1933-12
 上野彦馬 / 永見徳太郎 / p595~597

1934

・アサヒカメラ 17(1)[(94)],朝日新聞出版, 1934-01
 上野彦馬 / 永見德太郎 / p105~107

・カメラ、 ARS社, 1934-04
 「写真に縁ある流行唄」

 ・アサヒカメラ 18[(1)][(100)],朝日新聞出版, 1934-07
 第三特輯 名士アマチユア傑作集 新緑の日本アルツス / 永見德太郎 / p128~129 

・アサヒカメラ 18(2)(101),朝日新聞出版, 1934-08
 舞台寫眞の研究 / 永見德太郎 / p212~214

・アサヒカメラ 18[(3)][(102)],朝日新聞出版, 1934-09
 寫眞放談 / 永見德太郞 / p382~383

・アサヒカメラ 1934-10
 「帝都夜間撮影記」

 ・アサヒカメラ 18(5),朝日新聞出版, 1934-11
 特輯 露出の祕訣 顯微鏡寫眞の面白味 / 永見德太郎 / p551~564

 ・オール女性 昭和9年4月号 表紙・島崎蓊助に寄稿あり

1935

・写真月報 40(1),写真月報社, 1935-01
 文壇フオトグループの誕生 / 永見德太郞 / p108~114

・アマチユア・カメラ 4(2)(38),玄陽社, 1935-02
 コダツクヂユオ六二〇の試寫 / 永見德太郞 / p123~125

・アマチユア・カメラ 4(3)(39),玄陽社, 1935-03
 花談議 / 永見德太郞 / p168~172

・旅 12(4),新潮社, 1935-04
 カメラは與太る/永見德太郞 / p72~73

・アマチユア・カメラ 4(6)(42),玄陽社, 1935-06
 初夏の伊豆大島行 / 永見德太郞 / p371~374

・アマチユア・カメラ 4(7)(43),玄陽社, 1935-07
 長崎バツテン初期時代の私 / 永見德太郞 / p474~476

・旅 12(8),新潮社, 1935-08
 能登の海女達/永見徳太郎 / p144~147

総合文化雑誌「大和」第1巻第2,3号 大和発行所に寄稿有り

1936

・アサヒカメラ 21(1)(118),朝日新聞出版, 1936-01
 繪畫に現はれた寫眞 / 永見德太郎 / p116~119

・アマチユア・カメラ 5(2)(51),玄陽社, 1936-02
 特輯 最近の一般寫眞界の興隆とアマチユア寫眞熱の勃興について(二) / 福原信三 ; 堀口敬三 ; 永見德太郞 ; 岡利亮 ; 塚本閣治 / p108・124~

・明朗 (5月號),信正社, 1936-05
 カメラを通して見た藝術家 / 永見德太郞 / p271

・明朗 (5月號),信正社, 1936-05
 アマチユア放言 / 永見德太郞 / p699~702

※ カメラ・クラブ創刊

1937

・カメラ 18(1)(187),アルス, 1937-01
 ローライの夜間撮影と補力現像 / 永見德太郞 / p80~82

・ペン 2(1),三笠書房, 1937-01
 カメラの選び方 / 永見德太郞 / p90~93

・アサヒカメラ 23(1),朝日新聞出版, 1937-01
 強力現像の威力 舞台寫眞の結果 / 永見德太郞 / p213~216

・雄弁 28(1);新年特大號,大日本雄弁会講談社, 1937-01-01
 新しき家寶/永見德太郞 / 165~165

・長崎の迎陽亭で2月21-23日にわたって所蔵品の売り立てを行う(目録有り)

・実業の日本 40(3),実業之日本社, 1937-02
 カメラは高級品でないといけないか / 永見德太郞 / p62~63

・アマチユア・カメラ 6(2),玄陽社, 1937-02
 カメラの善用惡用――爐邊讀み物 / 永見德太郞 / p145~147

・アサヒカメラ 23[(3)][(132)],朝日新聞出版, 1937-03
 記事 アーテイスト達の一瞬間 / 永見德太郞 / p559~563

・アサヒカメラ 23(4)[(133)],朝日新聞出版, 1937-04
 續アーティスト達の一瞬間 / 永見德太郞 / p814~816

・上方 (77),上方郷土研究会, 1937-05
 サツマとヒウガと其他/永見德太郞 / 5~

・いのち 5(5),光明思想普及會, 1937-05
 大衆向カメラで樂しむ / 永見德太郎 / p220~224

・アサヒカメラ 24(1),朝日新聞出版, 1937-07
 續々アーテイスト達の一瞬間 / 永見德太郞 / p145~147

・カメラ 18(8)(195),アルス, 1937-08
 舞臺寫眞でよくやる縮尻 / 永見德太郞 / p163~165

・アサヒカメラ 24(2),朝日新聞出版, 1937-08
 盛夏凉風寫眞術 昔は寫眞を何と言つたか / 永見德太郎 / p404~407

・アサヒカメラ 24(4)(139),朝日新聞出版, 1937-10
 古寫眞ものがたり / 永見德太郎 / p648~651

・アサヒカメラ 24(5)(140),朝日新聞出版, 1937-11
 古寫眞モノガタリ / 永見德太郎 / p785~787

・アサヒカメラ 24(6)(141),朝日新聞出版, 1937-12
 古寫眞ものがたり / 永見徳太郎 / p920~922

・書物展望 7(12)(78),書物展望社, 1937-12
 寫眞新聞 / 永見德太郞 / p24~29

 1938

・カメラ 19(1月號)(200),アルス, 1938-01
 夜間撮影の失敗防止法 / 永見德太郞 / p39~41

・アサヒカメラ 25(1)(142),朝日新聞出版, 1938-01
 虎笑五題 / 永見德太郞 / p106~107

・カメラ 19(3月號)(202),アルス, 1938-03
 咲いた咲いた櫻の花が / 永見德太郞 / p260~261

・アサヒカメラ 25(3)(144),朝日新聞出版, 1938-03
 愉快な記念寫眞 / 永見德太郎 / p438~440

・アサヒカメラ 26(1)(148),朝日新聞出版, 1938-07
 女形扮裝寫眞笑話 / 永見德太郞 / p115~116

・アサヒカメラ 26(2)[(149)],朝日新聞出版, 1938-08
 尾上菊五郞丈寫眞美談 / 永見德太郞 / p334~335

・カメラ 19(12),アルス, 1938-12
 幽靈寫眞を撮る / 永見德太郞 / p600~601

 1939

・写真サロン13号(1)/玄光社
 「室津と赤穂」

・アサヒカメラ 27(1)(154),朝日新聞出版, 1939-01
 偲べ聖戦其舞台劇 / 永見徳太郞 / p104~106

・カメラ 20(4),アルス, 1939-04
 忠君愛國劇を寫すには / 永見德太郞 / p466~469

・江戸と東京,江戸と東京社,1939-06(第五巻復活第四号)に「高遠紀行 絵島をしのぶ」

・カメラ 20(9)(220),アルス, 1939-09
 どの座が舞臺撮影を許すか / 永見德太郞 / p352~354

・アサヒカメラ 28(4)(163),朝日新聞出版, 1939-10
 秋の撮影旅行異聞 / 永見德太郞 / 697~698

1940

・カメラ 21(1)(224),アルス, 1940-01
 迎春祈世 / 永見德太郞 / p114~117

・旅 17(4),新潮社, 1940-04
 櫻二題/永見德太郞 / p56~57

・カメラ 21(4)(227),アルス, 1940-04
 下田と寫眞の因縁 / 永見德太郞 / p414~417

・旅 17(5),新潮社, 1940-05
 旅に出た下岡蓮杖/永見德太郞 / p76~78

・政界往来 = Political journal 11(6),政界往来社, 1940-06
 カメラ雜音 / 永見德太郞 / p230~232

・写真新報 50(9),写真新報社, 1940-08
 樂屋裏秘帖 / 永見德太郎 / p6~8

・カメラ 21(11)(234),アルス, 1940-11
 村童と子供 / 永見德太郞 / p504~506

1941

・日蘭協会会報,東京・日蘭協会,1941-02,日・蘭印通行回顧号に「日蘭親善・混血児の記録」

・写真研究(月刊國際藝術寫眞雑誌GALERIE 改題),ガレリー・ニツポン・プレス,第五巻二号,1941.03,のp51に近況報告

・自警,自警会(警視庁内),1941-06に「江戸時代の奢侈品禁止」

・黒船 18(7),黒船社, 1941-07
 私の舞台寫眞 / 永見德太郞 / p24~25

・國民演劇 1(6),牧野書店, 1941-08
 舞臺寫眞の撮影 / 永見德太郞 / p114~118

・黒船 18(11),黒船社, 1941-11
 第二回寫眞展目録 / 永見德太郞 / p21~23

1942

サンデー毎日 昭和17年5月10日号,大阪毎日新聞
 ヒンヅー教の祭礼

1943

・旬刊 美術新報 第65号 昭和18年7月上旬号 ヂォットオと北宗画
 黄檗僧と北宗画

・旬刊 美術新報 第50号 昭和18年2月上旬号 アフリカ美術・南蘋派
 長崎の沈南蘋派

1947

・心の花 51(10)(588),竹柏会, 1947-10
 十月集--(その二)「わが文わが歌」と長崎 / 永見徳太郎 / p17~18

・心の花 51(11)(589),竹柏会, 1947-11
 三人集 / 永見徳太郞

1948

・余情 (8),千日書房, 1948-06
 「じやがたら文」 / 永見德太郞 / 73 ※再録か?

・心の花 52(7)(597),竹柏会, 1948-07
 石藥師の圖 / 永見德太郞 / p31~32

パウル・ヴォルフ「カメラの眼、生きた寫眞」

戦前から戦後にかけて銀座でカメラ店を営んでいた双美商会が発行してたと思われるPR誌「フタミニュース ダイヨット」の戦時中の号(1941年3月号)に、当時出版されたパウル・ヴォルフの写真集から文章と作品が転載されて、また写真集についての評がついていたのが当時の反応として興味深いので併せて起こしました。

当時の日本と写真、アマチュアの撮影がどういう状況に置かれていたのかは、表紙の「ここは写してよいとこか」の煽り文や裏表紙の「戦線へ慰問の写真を送りましょう」の広告からも読み取れるでしょう。

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そんな、すでにかなりの統制が実施されていたなかで特別の配給を受けてまで出版されたのがヴォルフの写真集でした。戦前・戦中にヴォルフがなぜそこまで評価され、影響を与えることができたのか、その一端は読み取ることはできるのではないかと思います。

戦前の日本におけるライカの普及を考える上で大きな働きをしたヴォルフについては以前、別の原稿の文字を起こしていますのでそちらもご覧ください。

パウル・ヴォルフ (写真家) - Wikipedia

photoworks.hatenablog.com

なお、ヴォルフ(1951年 逝去)の著作権はあらゆる意味で切れていますが、翻訳には翻訳者の二次著作権が発生します。しかし、翻訳者不明のため公開後五十年で保護期間は満了しています。

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カメラの眼、生きた寫眞

パウル・ヴォルフ

 

 今日から一年の間を寫眞の自習にあてゝみようではないか。足の向くまゝに歩き、眼を開いて自然の中を行つてみよう。そして先づ最も小さい部分を捉へることを試みよう。小さい物を大きく見、大きい物を小さく見ることを學ばう。

 一年の間の自然の變遷を眺め、草原、平野、樹木、草花、日光と雨、霧と雪、の中に自然の法則にある變化を見出さう。これらを見ることは決してやさしいことではなく、また是非必要な勉強である。しかもこれはより佳い寫眞を作らうといふ諸君の、省略することも道具を以て或は處法を以て置き代へる事も出來ない必修科目である。如何なる指導者からも敎はることの出來ない諸君の自修すべき間題なのである。

 かくして以前には見ることの出來なかつたものを見、また他の誰もが見得ない所に或る物を見ることが出來るに到らう。
 然しなほ吾々の眼はカメラの眼と異つたものであることを常に經驗されよう。寫眞に關する限り吾々の眼をもつて或るものを見ることは問題ではなく、寫眞的に何を見出すかゞ問題なのである。一つの物から寫眞的に何を捉へるかゞ決定的であり、それによって寫眞藝術に到達するのである。
 常に自身に對し厳正に批判的であらねばならぬ。萎縮するは不可である。より良く先んじ得た人々に悪意で對してはならぬ。

 かく自然の中に學ぶこと一年にして、諸君は物の見方の異つて來たことを感じるであらう。空に浮ぶ雲はその形が多種多様であり岸を打つ波の線は絶えず動いてゐる。吾々の撮影のために形を變へ線を動かしてくれてゐることを感じよう。樹も灌木も風に曲り、老人の顔には過ぎた日の運命と業蹟が現れてをり、若い人には生の歡びと滿足が溢れ、遊びや戯れ中に眞の子供の顔を見出すであらう。
 吾々の周圍には生命、愉悅、運動、押へることの出來ない喜び、躍り上る歡喜がある。諸君の手にあるカメラは、特にそれが小型カメラである場合、それらの對象と共に生きることを欲し、躍動する畫のためにこそ諸君のカメラは生れてゐるのである。
 諸君はこれらの美を捉へずして何を捉へようといふのか。
 諸君の周圍には對象は豊富な筈である。私は私の周圍によつてこれらの寫眞を作つた。諸君は今日よりよき機械、より進歩した材料、及びよき周圍をもつて、よりよき寫眞を作り得る筈である。
 かくして楽しい休暇の思出とする畫に圍まれる日が來よう。これらの書は大きい、多い、樂しい思出をその時のまゝ小さい印畫の上に寫し出したものであらう。繪の中から波の音をきゝ、風をきゝ得ようし、子供達の戯れる聲、砂上を走る足跫、さては戀人のさゝやきをまでその寫眞の中に聽くことが出來るであらう。

 私には如何なる畫を如何にして作れといふことは出來ない。諸君には朝から夜中までの諸君自身の生活がある、子供があり友人があり、特異な風景があるのだから。
 思想の缺乏は文字で救ふ事は出來ない。理想の缺乏は技術と違って私には救ひ得るものでない。機構及び技法は学ぶことが出來、又學ばねばならぬものである。これこそが繰返して述べるやうに、素人寫眞家を永久に素人の域に留らせるか、より高いものヘ進ませるかを分けるものなのである。

―『ヴォルフ傑作寫眞集』より―

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ヴォルフと模倣
田中操

 新しく出版された「ヴオルフ傑作寫眞集」を手にして、その記事を讀み、寫眞を眺めて先づ第一に感じることは、ヴオルフの寫眞が吾々にも寫せるやうにといふ心で比の本が編まれてゐるといふことだ。寫眞頁の最初に載せられた野原に坐つた女の寫眞に、巨匠ヴオルフと雖もその初期には吾々とあまり距りのない寫眞を寫してゐたのだなと心たのしくさせられる。

 此の本はヴオルフの優れたたのしい、うれしい、美と歡びの寫眞、眞劍な熱と汗の寫眞などを、逸散させぬためにあつめた寫眞帳だとみるよりも、私たちに寫眞を上手になれと言葉と寫眞とで敎へて呉れてゐるヴオルフの寫眞の解説書だと解したい。「學ぶといふことの最初は手本の模倣だ」といふヴオルフの言葉は正しい。學ぶといふ意味で私たちがヴオルフと同じ寫眞を寫すことに何の躊躇することがあらう、誰に遠慮することが要らう。眞似て、消化してそれを糧として成長するのだ。

 寫眞愛好家諸君よ、この手本のうちの一枚を選んで、頭の中でではなく、實際に諸君がそれと同じ寫眞を寫してみられるとよい。模倣といふものでさへも容易な勉強ではなく、彼の言葉通り高い價値あるものであることに氣づかれるだらう。試みに諸君の周園にゐる誰かをモデルに賴んで、何の困難なポーズでもない16 や23の寫眞と同じものを寫してみられよ。モデルの良しあしや、表情の自然不自然を云ふのではない。撮影者として諸君が何を發見し何を學ばれるかをみたいと思ふ。

 私たち寫眞を寫すことの好きなものにとつて、寫眞はみて樂しむものではなく、自ら製作して樂しむ實踐スポーツなのだ。

「ヴォルフ傑作寫眞集」は近來の一大快著だと私は思ふ。この書を寫眞家に推奬する價値を代表する言葉がある、林内閣情報官の序文の標題である。

 追ひつけ追ひ越せヴォルフ!

 ― ヴオルフから學ぶもの より―

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* 著者の田中操については不明。詳細がわかる方がいらしたらご教示いただければ幸いです。

* 本文を尊重して一応旧字体歴史的仮名遣いで起こしていますが、一部エディタで入力できない漢字などがあり、そこは現行書体になっています。また現代仮名遣いになっていたり入力ミスがあったりした場合はすいません。あくまで自分用のメモです。参照・利用はご自身の責任にてお願いします。

薄雷山(薄恕一)(1910)『雷山畫集』序文と雑感

薄雷山(恕一)が1910年に出版した『雷山畫集』(雷山画集)を買い求めましたので、その序文を起こしました。あと雑感を多少。

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何を持って「写真集」と定義するかは議論となるところですが、個人による写真集として日本で最初期の一冊であることは確かです。

相撲に由来する言葉として後援者の謂いである「タニマチ」の語源となったとされる薄恕一については、Wikipediaの彼の項には残念ながら写真家としての活動は載っていませんが浪華写真倶楽部に参加しその初期に活躍した写真家の一人です。

薄恕一 - Wikipedia

タニマチ - Wikipedia

浪華写真倶楽部 - Wikipedia

別冊太陽「写真集を編む。」を眺めていると巻頭特集で光田由里が福原信三の『巴里とセーヌ』(1922)を日本で最初に刊行された写真集ではと書いていましたがこれは「刊行」の意味をどうとるかかな、と。

同じく浪華写真倶楽部に参加していた永見徳太郎には同時期にこちらも最初の個人写真集ともされる『夏汀画集』(1912)があるのですが、よく読めばそこへの米谷紅浪の寄稿から『雷山画集』(1910)が先行することがわかります。また、米谷の記述から浪華写真倶楽部界隈のなかでも先駆的なものだったようです。

photoworks.hatenablog.com

参考に『芸術写真の精華』を捲って飯田湖北の『湖北写真印画集』(1914)を見つまして、気合を入れて重いこの本を引っ張り出したら載っていました。

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やはり印刷は桑田商会で、先行する『雷山画集』『夏汀画集』とも装丁、命名規則といい通底するものがあるので桑田商会が取り扱ったこの時期のものに共通したフォーマットだったと思われ、きっとまだ同種のものがあるだろうという予感がしますがどうでしょうか。

『湖北写真印画集』については先日亡くなられた金子隆一のこちらの講演録でも多少触れられています。

takumisuzuki123.blog.fc2.com

さて、雷山画集です。小口は金付けされ、高級感があります。

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この雷山画集は作品ごとに解題の記された薄紙と印画が見開きになるように構成され、また印画のページには写真と題を共通する俳句が添えられているところに特徴があります。最初期の写真集ですが、すでに作家の明確な構成意識のもとに編集されていることは注意を引きます。

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前置きが長くなりましたが、ではこの写真集に付された序文はどのようなものだったのか。

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好きこそものゝ上手なれてふ語はたしかに一分の眞理を含み下手の橫好きなる語にも亦動かすべからざる適例を見る、予の俳句と寫眞に於ける正に其後者に屬すべきものなり、今は近江の義仲寺におはす露城宗匠に就て俳句を學びしも既に十有餘年の昔にて、寫眞に指を染めしより又碌々茲に七年の星霜を閲しぬ、然り而して未だ嘗て會心の作を得出さず況んや傑作とかいふものをや、想うて一たび是に至れば心ひそかに忸怩たらざるを得ざるものあり、顧ふに寫眞は無聲の詩にして俳句は正に有聲の畫なるべし、是に於てか寫眞と俳句に連鎖を與へ餘韻脈々たる無聲詩の上に簡潔明快なる有聲畫を配し兩々相待つて美を完つたからしめ茲に初めて一新機軸を出だすを得ば或は多少斯界に貢獻することのありなんものをと疾くより之れを企圖して汲々たりしも所謂下手の橫好き奈何せん、寫眞の技は平凡にして上達せず俳句素より未だ月竝式の調を脫せず搗てゝ加へて繁劇なる刀圭の業務は今日に至るも尙且所要の暇を與へず、是を以て未だ之れを世に公にするを得ざりき、さるをこたび同好諸士の援助により兹に初めて「雷山畫集」と銘を打ち其第一輯を世に送り出だすことゝなりぬ。素より瓦礫の作のみにして素志の一部分を果せるに過ぎず。伏して願はくば大方の諸士幸に高敎を垂れたまふに吝なるなからんことを。筆を擱するに 臨み尙一言を敍して敬意を表すべきものありそは本畫集の發刊に就て桑田濶山君の終始其勞を採られたると本作品に對し丸山晚霞畫伯の細密なる批評を辱うしたるは著者の光榮として滿腔の誠意を表し深く感謝する處なり。

明治四十三年九月

メッセルをペン軸に執りかへて

著者謹誌

* なるべく原文のままに起こしています。一部変体仮名や合字、繰り返し記号などPC上では表しにくい部分、行末の句読点の省略などは適宜書き換え、補っていますのでご承知おきください。

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日本での個人による写真集の原初形態において、作家自身が「顧ふに寫眞は無聲の詩にして俳句は正に有聲の畫なるべし」と俳句と写真を通底するものととらえ、共通の題のもとに構成したことはその後の写真史のなかで俳句と比較する議論がメインストリームではないながら、むしろ大衆寄りの世界でなんども浮上してくることを踏まえて興味深いのです。

ただ、後世のそれと、この当時では位相が違うように思われるところもあるのですが、今はメモをしておくにとどめます。当時において俳句や和歌も現代文学であり革新運動の最中にあったことは念頭に置いておきたいと思います。

薄の写真と俳句に批評を寄せる丸山晩霞は著名な画家です。

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一時自ら句誌を主催し洋画も描いて入選し、凡作ではあるでしょうが文芸の世界でもその片隅にはいて南蛮美術の研究家でもあった永見徳太郎もそうですが、この時代の文人を一つの側面だけで捉えようとすると見誤ります。薄雷山には雷山詩鈔という戦後の著作もあるのですが、この場合の詩は漢詩のことです。跋文から全て漢文で私には歯が立ちません。

さて、最後に永見徳太郎の『夏汀画集』が日本最初の個人写真集という認識は戦前の名だたる写真家たちにもある程度共通認識になっていたらしいことは戦前「カメラクラブ」誌の座談会(1939)からも分かるのですが、そうでないことは先述の通り永見の写真集への米谷の寄稿が示しています。

この時点で夏汀画集からは約30年が経っており、永見の記憶も曖昧だったのか色々と時期がずれていることが読み取れます。おそらくは1932年の「古写真」(この時点で幕末明治初、または明治期は"大昔"であるということは意識しておくべきです)研究書である永見の『珍しい写真』(1932)序文で曖昧なまま言い切ってしまったことがこの認識を作ったのでしょう。

この座談会で永見を囲んでいる著名な写真家達は芸術写真の時代とは切れていることもあります。そういう意味で、芸術写真の時代に活動して、この時代は古写真/写真史の研究を続けるとともに舞台写真分野の職業写真家であり、趣味写真の初心者向けの文章を書き続けていた永見という人の立ち位置は面白いものではあるのです。

photoworks.hatenablog.com

これは米谷の寄稿文を起こしたときに書いたことですが、そもそも誰が最初かということはそこまで重要では無く「当地の同人間に幾多の計画聞きしも未だ」という記述からも、芸術写真が隆盛を迎えて作家個人の作品を個展あるいは作品集として発表しようという雰囲気は既に同時代に横溢していたし、これも先に述べたように、未だ知られない同時期の写真集はまだある可能性があって、そういう状況を踏まえて登場した作品群であると捉えた方が建設的に思えます。

最後に当時、個人写真集は自費出版で(写真を中心においた書籍の流通はすでにあったが)、この明治末大正初にあってそれが可能な人物たちというのは、飯田については殘念ながら来歴を知らないのですが、この出版が可能であったということは、薄や永見と同じく、功成り名を遂げたひとかどの人物達であっただろうというのはその後への継承と断絶を考えるうえで押さえておきたいところです。

米谷紅浪「画題に就て」(永見徳太郎『夏汀画集』(1912年)への寄稿)

永見徳太郎の『夏汀画集』には徳太郎(夏汀)の挨拶に続いて八名の寄稿があります。そこに並ぶ顔ぶれは郷土の関係者と写真関係者に大きく分かれますが、故がついていることからもわかるように将来を嘱望された画家であり、徳太郎と同世代の渡邊よ平(渡辺与平)はこの年(1912)に急逝しています。

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八先生へ
 
此畫集を発行せんとするに當り左の諸先生達に御願ひして厚き同情を得て有益なる記事を御送り下さつた事は難有御禮申します
春に發行しようと思ふていろいろと急ぎましたけれども、いろんな事情の爲めに残念乍ら秋に延びました罪は御許し下さい

夏汀生

 

故 渡邊よ平 先生
三宅克己 先生
森長瓢 先生
坂井犀水 先生
宗得蕪湖 先生
米谷紅浪 先生
吉野誠 先生
淺野金兵衛 先生

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先の夏汀画集序文の項でも述べたように、米谷紅浪は寄稿のなかで薄雷山(薄恕一)の「雷山画集」について触れているのですが、当時の関西の雰囲気の記録でもあり、また彼の画題へのこだわりが伝わってくるのが興味深いのです。ただ、余程の長文であったのか中略・後略があるのが残念なところです。ひょっとして長崎県歴史博物館に寄贈されている永見の書簡集の中に残っていたりしないのか、と思うのですけれども…

候文で句読点もないため慣れないと読みにくいところがあります。そのうち口語訳をつけようと思います。

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畫題に就て

米谷紅浪

前略
小生は貴兄と同じく或は一層若きカメリストにして浪華寫眞倶樂部中の最年少者に御座候従つて斯界に未だ日淺く不熟の技は到底過當なる御讃詞に價せざる可きを恥ずる者に御座候今般夏汀畫集御發行の由何よりの御事と存じ候過去幾年に捗る趣味多き而して愉快なる御苦心を以て滿されたる畫集の若葉風の下に繙かれたる時御快心の程さこそと御察し申上候當地にては先年薄君の雷山畫集を發行せられたるのみにて其後同人間に幾多の計畫を聞しも未だ[中略]とまれ貴畫集の斯界同好者に對する甚大なる反響、新しき趣味に充滿せる最良の参考書として小生は樂んで發梓の日を待つ者に御座候

小生は畫題に對し深き趣味を有する者に御座候凡そ畫として構圖よりも調子よりも感じの最もよく現れたる者が最良の價値ある者とすれば随って畫題に對し重大なる注意を要するや必然にして調和せざる畫題の爲め折角の名作も可惜何等の威を引起さざる例も決して起からず候此意味に於て單に風景等といふ漠然たる畫題の下に發表せらるヽ事は寫眞として最も趣味多き畫題にする研究を無視せられたる者として小生は絶對に反對を唱ふる者に御座候然し乍ら畫に對するシックリ合った畫題の選擇に随分困難なる事にて寫眞文學?に多大の研究を要せざれば能はざる事と存じ申候而して小生は畫題研究主義者として常に甚しき不足を感じ居る小生の貧弱なる頭脳を呪ふ者に御座候
何だか分らない事を長々として書き連ね御目をけがし申候