M3神話解体試論 作成用メモ(あるいは50年代写真文化史考に向けて)
日本の古本屋で「クラシックカメラ専科3 戦後国産カメラのあゆみ」を注文。まだ持っていなかったのかというツッコミを受けそう。これである程度疑問が解決すればいいけれども。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月24日
バルナックコピー機への機能追加、レオタックス後期だと巻き戻しがクランクになっているのね。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月24日
一眼ファインダ、視度補正、裏蓋フル横開き、レバー巻き上げ、巻き戻しクランク…を全部装備したもので"バルナックライカのシルエットを保ったもの"は無さそう。この路線の国内完成形はキヤノンかな。
最終機レオタックスGは発売前に倒産、別会社より販売。ミノルタスカイは販売中止、タナックはV3の一つ前のSDがこの路線、NiccaはIII L→ヤシカに吸収されてYE。このあたりを触ってみたくはあるけれど、そろえるとしたら恐ろしい。それでもTLを流れてくる中判デジ一台にもならないけれど(笑)
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月24日
いざまとめようとしらFedの登場年だけで資料ごとにバラバラだよ。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
FED-6なんてのもあったか…スペックだけならM7の対抗機。販売はされていない。これが1950年代に出ていれば凄いが出たのは世紀末…販売はされなかった。https://t.co/2SQmFXeuo0
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
ちょっと手をつけ始めただけでもう厳しい。最初はシンクロ接点を入れないつもりだったがそれだとZorki-Cが入らない。一応シベリアは実在するモノとしているけれどオーロラは完全なフェイクと判断。継続的な改良があるということでソ連は入れたけれどあとの海外バルナックコピーは外す。無理。 pic.twitter.com/HLLwQemytc
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
(主に)国内バルナックライカコピーの比較表、戦後に限定。M3の登場や戦後の様々な機能の大まかな影響関係が見たいのであってライカコピーの歴史が知りたいわけではないと自己催眠。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
対象を戦後に限定。参照軸としてのソビエトを除いて海外物は対象外。それでもキヤノン、ニコン、ミノルタ、レオタックス、ニツカ(ヤシカ)、田中光学などなど…佐藤さんからご指摘を受けたニツカの図面を基にしたと思われるメーカーも外すかな…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
キヤノン→ニッポン→ニッカ→(ここらで設計図が売られた?)→ゼノビア35(コピーライカの方、現存するとのこと)→オーナー→イチコンみたいな流れ、らしい。わけわからんね。魔境だわ
— 佐藤 (@sigeosato) 2017年11月23日
確か幻のカメラを追ってだったかと思うんですが、人材的にはキヤノンから分かれた形のニッカが「レオタックスはともかく他は図面が流れたから出来たようなもん」みたいなコメントしてるので、そうなると国産RF機のルーツはほんの数社しかないことになるかなと。そのルーツが比較的残ってる
— 佐藤 (@sigeosato) 2017年11月23日
まだ項目が増える気がする。データは製作途中のモノなのでまったく信じないでくださいね。特にFed / Zorkiの登場年度。 pic.twitter.com/8fP7OeroqK
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
で、バルナックライカコピーの戦後史を自分なりにまとめていて、改めて手元のnicca 3-Fがおかしい。こんなniccaどこにもない。これ海外のTower 45/46仕様なんじゃないだろうか。それなら5Lなる型番が知られているが、なんでそれが3-F銘で出ているんだ?
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
段ボール行きの山を掘り崩して三冊ほど発掘。クラシックカメラ専科の該当号が届くまでに読み返すと色々勉強になるだろう。ああ、カメラから写真史にシフトしようと書棚をかなり整理したところでこれだ。 pic.twitter.com/RM5lDkAnWS
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
発掘した三冊、読み返すと結構なことが分かった。求めている答えは手元にあって、しかも当時読んでいるはずなのに、やっぱり興味関心が自分の中に沸いていないと通り過ぎてしまうものなのだなと。基本、niccaとLeotax、あとtanackを追えば充分と思える。 https://t.co/l82o7QW2S0
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
バルナックライカ系のスタイルさを保ちつつ、巻き上げレバー、蝶番式横開きフルオープンの裏蓋、一眼式ファインダーという三要素を実現した機種となると一番近いところでZorki-6になってしまいそうなのに頭を抱えている。Canonをどう考えるかでPが浮上するけれども。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
個人的にはTanackが巻き上げレバーを採用するかLeotaxが蝶番式の横開き裏蓋を採用してくれればほぼ理想的なのだけれど。またはNicca。一眼式ファインダを採用すると一気にスタイルが箱になる。だからBessa-LかZeiss Ikon SWでいいじゃんと言う話になってしまうと元も子もないのだが。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
Fed / Zork / Fake Leica
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
Nicca 5L または Nicca 5
Leotax FV
Tanack IV S
Canon P
Zorki 4k
Zorki 6
Bessa-L
こんな感じでストーリーが描けないものか。安原一式は…うん、まぁ、本の紹介ぐらいで。
Lマウントの系譜を考えていてFed/Zorki系にはレリーズ対応という項目も必要だと気づく。あの特徴的な皿形のシャッターボタン形状につながる。そう考えていてレニングラードという代物が脳裏をよぎる。いや、あれには手を出したくない。が機能的にやはり1960年の同時代的な動きがあると感じさせられる。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
今回一番勉強になったのはFed-6なる機種がプロトタイプまでは存在していたのを知ったことでバルナックの系譜の最終形は多分これ。TTLとAEを実現している?同時期に安原一式やBessa-L/Rが登場しつつあったことを考えると興味深い。https://t.co/2SQmFXeuo0
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
あ、あと今日の再読の成果で、ミノルタのRF機の最終機はミノルタスカイじゃなかった。一眼レフに社運をかけつつRFを切り捨てるわけにもいかないということで中止したスカイの普及版をミノルタ35IIIとして開発していた。しかし結局発売はされなかった。(続く)
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
それからレオタックスはGに社運をかけすぎて、まだ充分に売れていた従来機種の生産を打ち切ったところがGの生産が計画通りに行かず、つなぎ融資を頼んだのを銀行に断られたのが倒産の主因と。当時レオタックスも一眼レフ"レオフレックス"の開発中であったと。ミノルタとの紙一重の差。天国と地獄。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
Canon PかLeotax FV(またはメリット、あるいはエリート)、Tanack IV Sあたりは出物があったら触ってみないと分からんなぁ。nicca III LとかTanack V3とかLeotax Gは興味の関心からも外れるし、そこはZorki 6でいいとしよう(突っ込みが多々ありそうだけれども)。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月25日
クラシックカメラ専科を読んでいて、一眼レフを改造してLマウント機をつくるという記事に目を見張る。しかもベースはリコーXR-8(の輸出仕様)という訳でコシナCTシリーズでやっていることがBessa-Lそのもの。98年の記事でBessa-L登場前夜。なにがしかの情報があったのだろうか。 pic.twitter.com/JMOfxp2qdK
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月27日
しかもなんだかツァイスのカメラを連想する…と、まるでのちのZeiss Ikon / ZeissIkon SWを予言するようなコメント。実際見た目はそちらに近い。今後の目標としてAEをあげているし…すごいものだ。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月27日
SR-1からミノルタスカイを再現してしまう人がいるんだから、FedやZorkiからフェイクライカを作ったりするのは結構簡単だったりするのかと錯覚する。手元のフェイクライカ(ライカI(C)型コピー)も天板やガリレオ型ファインダー、シャッターダイヤルカバーのあたり"新造"なんだよね、これが…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月28日
一眼レフ黎明期にしてレンジファインダー完成期の雑誌、広告まで面白い pic.twitter.com/KQYQXWSyIy
— (´・ω・`) (@minan_taiwan) 2017年11月29日
カメラの日ということで一部期待された向きもあるようですが、順当にいま一番興味をもって眺めているカメラの一系統の歴史を置いておきます。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
Leica A (1926)
Zorki 6 (1959)
フェイクライカ(Zorkiベース) (1990年前後)
しまったBessa-Lも入れるべきだったがもうバッテリーがない。 #カメラの日 pic.twitter.com/u76iQ5gnFm
RT ちょうどこの頃の状況を確認するため戦後バルナックコピー機で契機となったと思しき機種を買い集めている最中ですけれど、M3ショックで日本メーカーが一気に一眼レフに舵を切ったというのは眉唾な言説でM3自体傑作機であるのは確かとして本当にカメラ市場に受け入れられたかは怪しいのです。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月29日
M3が出て一気に日本メーカーが一眼レフに舵を切ったなら、どうしてM3の影響を受けた機種が続々と登場していくのかと。と同時にカメラの大衆化、低価格化が進む中で次の市場は一眼レフというのは"M3以前に"ほぼ確定していてM3というのは空母の時代への移行が明確になったあとに登場した巨大軍艦の趣が。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月29日
あー、M3が優れたカメラであることは間違いないです。もってますが恐れ多くて使えないくらいに(笑) 分相応に普段使いはFedかBessa-Lという次第です。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
同感です。そんなに言うほどライカは国内で売れてませんでしたし。レンズ交換無しの距離形式がサラリーマンの月収に近かった時代ですから。今も中古ライカがあるのは、ポルシェが廃車になりにくいのと同義ですね。
— kan (@kans1948) 2017年11月30日
残ったものから逆照射されてしまった偽史が多いな、という気がします。特に当時を知る大御所が引退されてしまったあとの90年代末期のクラカメブーム辺りにねつ造された神話が多いのではないかと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
>90年代末期のクラカメブーム辺りにねつ造された神話
— tri-chrome™️ (仮) (@tri_chrome) 2017年11月30日
検証なしに色々な人が擦ってきた伝説ですね。
まるでポエムのような話ですね。
ボクは元々カメラに対する深い知識はありませんし、歴史を見てきた感覚もあまりないですけど、中古カメラブームに多数出版された本を読むと「なんだかなぁ~」という感覚を拭えません。歴史書でも工学書でもなく圧倒的にエッセイなんですよ。なんだこれは。
— tri-chrome™️ (仮) (@tri_chrome) 2017年11月30日
ミノルタスカイの開発はM3にあこがれた開発者達がこぞってとりくんだみたいで、そこに一眼レフの影なんてかけらもない。完成したスカイを持ってアメリカに乗り込んだ社長はそこでむしろM3を出してしまったライカはもうお仕舞いだという市場の評価をみて愕然として帰り、即座に一眼レフに切り替える。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
これはM3にショックを受けて一眼レフに切り替えたって神話とはずいぶん違うだろう。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
やっぱりミノルタの社史手に入れないと駄目か。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年11月30日
改めて一眼レフの技術開発史をざっくり復習したのだけれど、この歴史にM3を入れる必然性はないのではないかという印象が強まる。そしてM3が登場したことでミノルタとキヤノンはRFを強化したのであってニコンだってM3を見て開発を始めたのSPであってFではない。ペンタは最初っから一眼レフだし。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
ニコン、キヤノン、ミノルタ、レオタックス…どこも年表で事象を確認していくとM3を見てやったことはM3対抗機種の開発であってその時点で一眼レフなんて取りかかっていない。ニコンのFもあくまでメインはSPでサブの特殊用途向けとして取りかかられた気配が。それだって別にM3の衝撃などではない。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
ニコンでもキヤノンでもミノルタでもレオタックスでもない、M3の衝撃でRFから一眼レフに一斉に切り替えたカメラメーカーってどこだ。ズノーはライカコピーは試作したけれど発売はしてない。オリオン精機、旭光学と同じくカメラとしては最初から一眼レフ路線と見ていい。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
やっぱり50年代の各社の輸出向けの機種と輸出先の市場を押さえる必要がありそう。あと、当時のレンズ交換式カメラは凄まじい高級品(今で言うならライカSLとか中判デジの感覚)なのだけれど50年代を通して値段は下がっていったことも各社の経営を考えるうえで押さえておく。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
その波に乗って大成功したのがCanon P、失敗したのがS4。でもその成功がキヤノンの一眼レフ転換を遅らせ、ニコンはFで成功する。50年代を通して起こった一眼レフとRFというカメラのパラダイムの相克であって、巨視的に見るとM3という機種に着目する意味はほとんどないかも知れぬ。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
『ミノルタかく戦えり』にのってた。「孤高のM3の登場で日本メーカーは一眼レフに向かった」って。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
でも、この本
「米ではSが売れた。M3は床の間の飾りS2はプロ機」
「ミノはM3目指してスカイ作った」
「戦後日本はライカを目指した」
「ミノを支えたのは二眼とレンズシャッター機」
が混在していて…
人間の主観というのはいくらでも矛盾できるし、それぞれの記述に積極的な嘘はないのだけれど、当時の時系列において確認していく作業は大事だね。というか私も前読んだときはそれぞれの矛盾なんて意識もしていなかったよ…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
ある形態が隆盛を誇っている所に、似た別形態が生まれる。それはおもちゃ扱いされせいぜい特殊用途と見なされる。元の形態の枠内ではすごい機種が生まれたりもしている。しかしおもちゃ扱いされていた機種がある喫水線を越えた瞬間に、元の携帯の枠組みの外で圧倒的に支持され、元の形態を駆逐する。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
RFと一眼レフの話?いえ、銀塩とデジタルの話デスヨ(笑)。今いろんなものひっくり返したところでの感触はあの大転換に近い。当時のイノベーターは既に次に来るのが一眼レフ/デジタルだと気づいていた。彼らはM3を評価しなかった。変化は"業界"の外から来た。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月1日
また別の本で、この本の記述にも眉唾なところはあるのだけれど、"孤高のM3の登場は、「いつかはライカを」と思っていたカメラファンの目をむしろレンズシャッター機や一眼レフに向けさせた"という趣旨の記述は面白いと思える。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
今年度最後の個人的課題が「M3神話の解体試論」になりそうだというのにどうしたものか。勿論M3はいいカメラですけれど。典型的な神話化と同じ過程をたどって、あとはその再話の繰り返しでディティールはどんどんそげ落ちていったというありきたりのパターンなのは目に見えている。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
あくまで個人的納得が欲しいだけだという一線を守っておかないと、Zenitとかスポルトとかキネエグザクタとかそのあたりにも手を出すことになりかねないので、それはしないと予防線を張っておく。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
いつかはライカをって人は私の世代よりもっと上ですね。私たち団塊世代以降は、どんどん出てくる国産に目が向いていました。以前に書いた通り、ライカはポルシェみたいなもの、憧れる人もいたと思いますが、「昔の超高級機≒無縁」という感じでした。
— kan (@kans1948) 2017年12月3日
個人的に納得するための「M3神話の解体試論」だけれど、そう考えると各社のM3対抗機を何か一つ触っておかないといけないのかという気もするが、タナックV3やレオタックスGはものがないし、YASHICA YFならまだ。と思ったがここはCanon 7Sかなぁ。あまり食指は動かないのだが。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
このあたりまだ全然調べていないのだけれど、YASHICA 35YLのデザインなんかはNicca III Lの系譜なんだろうか。なぜYFでこれをやらなかった…(言いがかりhttps://t.co/hEBnJyYb7S
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
そうはいっても、実はM3って結構進化のどん詰まりだったようにも思える…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
後世のマニアが書いた文章というのは、または当時の人間でも晩年に振り返った回想録の類いも、取り扱いには注意が必要だと考えている。当時の資料に当たるしかなく、また銀行の残高が減っていく…部屋のスペースもな…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
むしろM3は幻の一眼レフ、デュフレックス(絶対手に入らないだろうな)を参照していたのではないかという証明不能の推測がどこかでされていたが、一眼レフとRFの機構の相互影響史って思われている以上にずっと複雑なのかもな…とは思うが手に余る。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
M3の衝撃というのは60年代になってもっと下の価格帯のレンズシャッターRFコンパクトにつながっていったのではないかという、まだ全然調べていない思いつきをメモする。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
ごく単純な話なのだけれど、M3そのままのコピー機が出なかったのは、戦後の機種なのでライツの権利もがっつり生きているし工業デザインの保護意識も高まりつつあった(Yashica-44がローライから訴訟食らったり)という事実がなぜか技術力の問題にすりかわってないかなぁと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
ファインダー周りは特許でガチガチですし(恐らくMマウント自体も)、その莫大なコスト(高精度で多量のプリズム生産と組立)を考えても真正面からM3のコピーは作れなかったのではと想像します。
— tri-chrome™️ (仮) (@tri_chrome) 2017年12月3日
単純にNicca 5L(TOWER 国内版 1955?)の前後でM3同等の裏蓋開放・巻上レバーは達成していて、あとは一軸不回転シャッターと一眼式ファインダを搭載すればM3同等にはなる。で、キヤノンやミノルタ等の同時代機は個別に達成していたわけで。レンズシャッター機でもコニカIII Aのファインダが出ているし。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
1958年を境に高級機から普及機にRF市場の売れ筋が切り替わりつつあって、8万で売ってた機種の廉価版を6万で売るようになると。これ2万の価格差と思っちゃいけません。今の感覚で乱暴かつ少なめに換算して120万で売ってたものが90万でしか売れなくなるということです。商売のあり方がまるで変わります。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
あと、なんで当時一眼レフが海外向けだったりするのかと言えば、当時の問屋販売網というのは今からは想像できないほど(もちろん流通が未整備な時代の必然もあった)強力で、よい物をつくろうともその販売網に食い込めなければ物を売ってもらえないのです。新興メーカーには厳しく海外に販路を求めた。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月3日
昨日の"突発イベント"発生で資料を読み進められなかったが、とにかく50年代がカメラだけでなく日本社会が大きく変わっていく時代で、世界史も勘案しつつ動きを追っていくと本当に面白い。一年ごとに各要素の動きもエキサイティングに変わっていく。既に脱線気味。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月4日
ちと資料をひっくり返していたらカメラ関係の広告が目についた。このA2の広告を出しているのがミノルタでなく浅沼商会だということの意味。このあたりの販売網の歴史を踏まえるとメーカーの興亡史はもう少し陰影を増すと思うの。 pic.twitter.com/cW7kbggyep
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年9月27日
1955年、小学校入学、6歳上の姉の当時は教科書へ墨塗り、3歳上の兄の時は生徒数のドロップ、私の時は欠食児童。
— kan (@kans1948) 2017年12月5日
低学年は街頭テレビの時代、5年に皇太子御成婚でテレビ普及、中三で衛星通信とケネディー暗殺、高校でピカソ展と東京オリンピックとカラーテレビ普及・・・凄まじい変化でした。
思ったより早く仕事が終わったので、今日届いた本とゾクゾク到着しつつある50年代RF機達。本はこれからどんどん届く。カメラもまだ届く。アカウント銘のAFカメラって距離計連動式の別称のことだったんだなと。 pic.twitter.com/Iwezwv3FAN
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
手元に到着しつつある中で巨体なのがCanon Pで、実は一眼レフベースのBessa-Lより一回り大きい。Zorki初代とならまったくサイズ感が変わってくる。その分、大きな一眼式ファインダー、巻き上げレバー、巻き戻しクランク、横開きの蝶番式裏蓋を持っている。 pic.twitter.com/iTplXYmgLG
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
あ、このTanackシャッター幕不調だ。調整できるかなぁ。ジャンク扱いだからしかたないし、全体の作りを見たかったのだから目的は果たせる。それにしても、この最後のkが"た"を模しているというロゴは本当に秀逸。 pic.twitter.com/c0Aw3POpFK
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
1955年のカメラ番付 ざっくり
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
横綱 M3(本体) → 300万円
大関 IIIf / コンタックス IIa レンズ付 → 300万前後
関脇 海外製一眼レフ(ペンタプリズム) → 100~200万
小結 海外製レンズ交換式RF機
前頭 国産高級レンズ交換式RF機 → 100~130万円
十両 国産一眼レフ(ペンタプリズム) → 80万
(続く)
幕下 国産普及帯レンズ交換式RF機 → 50万弱
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月5日
三段目 国産レンズシャッター機 → 10万~50万
序二段 国産普及帯二眼レフ → 10~20万
序の口 国産スプリングカメラ → 10~15万
当時の1万をざっくり15万で換算。ただしこのあたりどの指標を取るかで変わる。30万で換算したがいいかもしれない。
(メモ) 50年代の画期となる箇所いくつか
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
・二眼レフ / スプリングカメラの退潮
→ 過当競争で値崩れ
・レンズシャッター機の普及
・M3登場
・高度経済成長の始まり
→ 生産環境の向上 / 四畳半メーカーの退場
→ 国民カメラ
・RF機の過当競争
・一眼レフ隆盛
M3ショックって「ライカを追っていたカメラメーカー/技術者/ハイアマチュアの受けたショック」が誇張されすぎているのではないかという印象がますます。それは凄いしあこがれも確かに読み取れるのだけれど「必要なのは大衆機の機能向上だ」と論調は至って冷静。写真工業あたりだと違うかも。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
(メモ) 50年代を考えるに、他社との仁義なき戦いのためメーカーの体力を越えた多機種・新機種・低価格投入展開で市場が荒れたという、アタリショックとかDOS/V機を思わせる展開も考慮しておく必要がありそう。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
ヤシカの50~60年代をもっと丁寧に追いたくなってきた。niccaの吸収後の技術の流れとか…うん、無理。我慢。そろそろお金がないの。時間と空間も。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
50年代面白いなぁ。一年ごとに状況、背景となる社会情勢、復興と高度経済成長、工業生産体制が変わっていくのをひしひしと感じる。既に「目指すはライカ」というのは相当の留保をつけないと意味のない言説と理解。そも「ライカを目指す」って具体的には何なのか、と。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
しかし当時レンズ交換式RF機の方がペンタプリズムとクイックリターンミラーを獲得した一眼レフよりも高級機の位置づけというのは盲点だった。と同時に、コニカ・オリンパス・ヤシカ等々のライカ路線を目指さなかったメーカーもたくさんあるわけで。RFという機構の限界を示したのがむしろM3なのではと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
そしてカメラ博物館にいけば即確認できるのだろうけれど、手元の資料から推測する限り50年代以降圧倒的な出荷数を他の形式をたたきのめして稼ぎ続けるのはレンズシャッター式のRFコンパクトと見受けられる。そして一眼レフも、50年代の半ばには既にレンズ交換式高級RF機を遙かに超える出荷数のような。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
ただし、一般ユーザーは安くて「実画面が見える」一眼レフに気づいて、高くて性能が劣る距離形式を捨てていったのです。これについては一気にいろいろなデバイスを発表して、技術的優位性を示したニコンが大きな役割を示したと思います。
— kan (@kans1948) 2017年12月6日
そのあたり、niccaの技術がYASHICAにどう移入されたのかを把握したいのだけれどとりあえずは禁欲かな。YASHICA YFは探そう…
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
「技術者は皆ライカを目指した」っていうのも技術者個人のバイアスがかかりまくった話で、そも戦後に一番最初にブームを巻き起こしたのは二眼レフじゃなかったですかね、と。オリンパスの米谷さんあたりの伝記を見直していてもライカのラの字もでてこないのだけれど。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
資料収集途中だけれど、M3が日本のメーカーを一眼レフに向かわせたというのは誤謬に思えるし(全く影響がなかったとは言はないが)、高度経済成長期のカメラユーザーの広がり、もっと色んな物が撮りたいという欲望の高まりに答えられたのは機能で一眼レフ、値段でレンズシャッター機だったのでないかと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
しかし、とりあえずのところとしては「そんな一文で分かった気になれるような簡単な話ではない」というようなあたりでまとめておくのが穏当だろうか。いまでいうならアストンマーチンとかのレベルでどうこう言われても、プリウスやリーフの方が余程影響が大きいです。見たいな。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月6日
(メモ) 50年代カメラ史捕逸
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月7日
工業生産技術の向上、高度経済成長による所得の向上が背景
・M3の衝撃を吸収し1/20の低価格で庶民に届けたのはレンズシャッター機
・各社高級RF機でM3の要素を吸収
・同時にM3対抗機を開発中
・その後ろで一眼レフ、東ドイツと競いながら急速に機能向上し、市場を確立中
背景のところで、輸出産業としてのカメラ産業が急速に確立も入れて置きたい。レンズシャッター機と一眼レフを考えるとき、海外市場の動きも押さえておかないと見間違う。90年代のクラカメ系読み物が20世紀末の状況を逆照射して50年代の状況を腐すような恥をさらすことになる。署名記事は恐い。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月7日
(メモ) 50年代カメラ史でもう少し調べる必要があること。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月7日
フィルム、感剤の発展史
→ 二眼レフ・スプリングカメラの退潮と35mmの隆盛
レトロフォーカス型広角レンズの開発
→ 一眼レフの普及に向けた、レンズ側の画期
レンズの構成にはあまり興味がなかったのだけれど改めて少し勉強の必要が出た。
ここ数日の読書傾向のせいで、これまでドフのジャンクコーナーに並んだのを見送ってきたペトリやアイレスのボロボロのレンズシャッター機は拾って修理すべきだったのではないかと煩悶している。これが新しい視点を経てうち捨てられたモノが輝いて見えるという… #幻覚
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
何の因果か帰りのドフで何か拾いました。これがEOS Kiss III 標準ズーム付(540円)やEOS 630 標準付や美品のF70(1080円)やハイマチックやキャノネット(1640円)より高い2160円というあたり。そして、今巻き上げを試してどうも壊れ他っぽいという…さっそく怨霊が出そうです(汗) pic.twitter.com/IwCtbZtEvk
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
50年代の写真誌中心にさらにいろいろ届く。まだ届くのだけれど「M3の登場で日本のカメラメーカーは一斉に一眼レフに舵をきった云々」はもう後世を逆照射した俗説認定でよさそう。この50年代の一年ごとに状況が変わりどんどん市場拡大する中での世界レベルでの興亡史はもっと面白く、活き活きしている。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
『M3凄い!』とはなっているのだけれど恐れ入ってなんかない。レンズシャッター機はどんどんM3の発想を、勿論M3の数十分の一のコストと値段で(当然仕上がりも(汗))取り込んで製品化している。この状況を見るとM3が出て高級RFメーカーが次に取り組むのはM3対抗機という方が余程納得でき、史実でもある。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
そして、もう一眼レフのあるべき姿はほぼ目の前に現れていたし、あとは誰がそれを取るかという感じ。ただ、この時点でまだスプリングも二眼レフも市場性を保っていてレンズシャッター機自体RF機なのだから、その後の急速な転換を読めたかというと…銀塩からデジタルの変化予測の外れたことを思い出す。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
ただ、この『次に来るのは一眼レフだね!』と言われている一眼レフ時代前夜の段階で機種を市場に投入していたのはレンズ交換式RF機(ライカコピー機)を作っていなかったメーカーばかりなので、この時点でもどうかなと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
(メモ・明日の課題) 縦走りの金属幕によるフォーカルプレンシャッターユニットが普及する以前のレンズシャッター式一眼レフのメーカーの流れ。
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Taron 35
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
触っている間にレバーが戻りました。どうも巻き上げレバー直下のギアが歪んでいるのかかけているのか周期的に引っかかる印象です。どっしりした金属の塊ですが、そのあたり弱点を感じる部分も。当時の35mm最安価格帯の上層あたりの位置づけ。一万三千円。今の感覚で六万弱。 pic.twitter.com/jysmmCqRsq
読み返すと90年代のクラカメ本でも、50年代の分かった人はM3からレンズシャッター機への影響や"背景の"一眼レフの勃興を踏まえて状況の遷移を記述しているのだが、全体がライカや名機を過度に持ち上げる雰囲気の中でそこにばかり目の行く読者がそのような前提の部分をどれほど受け取り得たかというと。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
そして当時の資料を確認しないままの孫引きの過程で肉付けの部分が脱落し、ついでに背骨も脱落して頭蓋骨と腰が逆さまにひっついたような妙な記述が誕生するのだけれど、個々の機種やブランドのマニアはいても通史的なカメラ史に需要はほとんどなく、雑な記述は見逃されてきた。そんなところかな。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
そんなわけでM3神話の偽史性と、なぜそのような神話がせいりつしてしまったかの経緯がだいたい推測がついたのですが、自分なりに納得がほぼ得られた(追加の資料が届くので最終的な結論は保留)のでまとめる気力が失せています。これが私が余程のことがない限りまともに論文を仕上げられない理由。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月8日
別に新しい知見を得たというのではなく50-60年代なら当たり前だっただろうことを再確認したというだけなのですよ。調べる過程は面白いのですが、結論が見えるとまとめるモチベーションがあがりません…が、ブログで呟きをまとめるなりなにか考えます。
— Ichizo Harimaya (@afcamera_mania) 2017年12月9日