書肆萬年床光画関係資料室

写真史や撮影技術、カメラ等について研究趣味上のメモ置き場

永見徳太郎『夏汀画集』(1912年)序文

永見徳太郎が1912年に自費出版した写真集『夏汀画集』の序文を起こしました。徳太郎当時22歳。浪華写真倶楽部の「写真界」等に投稿を繰り返していた時期で、印刷は同倶楽部の後援でもある桑田商会。なお、発行は奥付でも1912年12月15日となっているのですが、今回底本とした長崎歴史文化博物館所蔵本(浅野金兵衛旧蔵本)は筆書きで「大正二年三月発行」と修正されており、そちらが正しい発行日なのかも知れません。

これが重要になってくるのは、のちに『珍しい写真』序文で永見が述べるように、この『夏汀画集』には日本で最初の個人写真集という説があって、実際戦前の写真界の一部でそのように認識されていたらしいことが当時の座談会などからも分かるのですが、この『夏汀画集』に寄せられている米谷紅浪の文章の記述によるならば、どうも薄恕一(薄雷山)の『雷山画集』が先行するらしいのです。

永見はこのあと写真史家としては別として一時作家活動からは距離を置いていたのもあり、そこで記憶違いが起きたのかも知れませんし、また新興写真とは距離を置いていたように思いますが、実は芸術写真の時代から戦中まで中央で活動を続けた写真家というのは少ないので彼の認識が広がってしまったと言うことかも知れません。

そもそも誰が最初かということは重要で無く、先ほどの米谷の寄稿文のなかの「当地の同人間に幾多の計画聞きしも未だ」という記述からも、芸術写真が隆盛を迎えて作家個人の作品を個展あるいは作品集として発表しようという雰囲気は既に同時代に横溢していたし、未だ知られない同時期の写真集はまだある可能性がありそういう状況を踏まえて登場したうちの一冊であったと捉えた方が建設的に思えます。

米谷含めた寄稿文のうちいくつかはいずれ起こしたいと思います。

 

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思ひ出のまゝ

永見夏汀

* 仮名遣いや句読点の用法が定まっていませんがなるべく原文のままに起こしています。一部書体や繰り返し記号などPC上では表しにくい部分、行末の句読点の省略などは適宜補っていますのでご承知おきください。

僕が寫眞を初めたのは丁度今から十年前の事で其頃は高等小學校の白兒であった、母サンが大坂に行かれた時親戚の人から古い器械を僕にと云ふて渡されたそうぢや。

元來僕は五ッ六ッの頃から赤鉛筆を握って、鳩ポッポーや御馬ハイハイのいたづらがきをしたり又幻燈が大の好きで近所の朋輩を集めて。繪の寫るのをみては此上もない樂みとしてをった位だから、寫眞銅版などは何百枚も集めて學校から歸へると其れと睨みっこしてゐた、で幸ひ器械が手に入ったので天にも昇ると云ふ心もちがした、明日と云はず其晩からマグ子ッシュームをたいて光りに驚かされた、其頃は只寫眞術なるものは器械を組立て鏡玉の蓋を取れば寫るものだと云ふ單純な考へであった、ので夜間の試は勿論物になる筈はない。

暗いルームで赤い光線を全身にあびて或希望をいだきつヽバットを抔と云ふのは何となしに心地よい感がした、而してメートグラス、紫や靑の藥を量ったり、ピーオーピーを六ヶ敷プリンチングヲブペーパーとかウエリントンブロマイドとかの語をくりかへしては普通の人より一増気がきいた様であった、それからと云ふものは閑さへあれば寫眞いぢくりばかしをしてゐた。

其頃親類に某と云ふ兄サンが寫眞をやって居られたから此兄サンと瀧澤氏の寫眞術とを師として!、今考へると此兄なる者の技術があやしなものであった、失敗又失敗をつゞけたけれども一向物にならんのでアキが來て殘念乍ら中止して器械には微が生へると云ふ始末。

日露戰爭の寫眞等を見ては兵隊の走つたり砲彈の破裂する瞬間がよく撮れるものとシキリに感心してた。 

全く寫眞から遠ざかった三四年後に宮島に行たっ事がある、其時若い人がシキリと大鳥居を寫してゐられた、僕も寫真を上手にやるなら今度の旅の樣な時にはさぞ面白い愉快な事だろうと考へた而して寫眞屋の前を通る時いつもこんな事が胸に浮ぶ。

「器械や器具などの設備は寫眞屋より足らぬだろうけれども、一増研究して見たら一枚位滿足なのが出来る筈」と、

學校も小學校を終り商業校に生徒となり、以前よりは餘程何事も解する事が早くなり再び寫眞なる術を初めた、寫眞趣味なるものが次第次第に面白くなって一も寫眞二も寫眞と云ふ樣になってきた。僕は小さい時から趣味を廣くもち其等の多くを研究しようと云ふ事を思ふて居た、而して最も心に適當したのが文藝趣味である、其研究も一寸では氣が済まぬから深く深くさぐる丈さがして見ようと覺悟して居る、而して負ず嫌いな性質として百年も二百年も、はた數億年の後の人々が「昔々大昔の日本と云ふ國に寫眞と云ふものがあった時代に下手で、無暗に力んで居た男があって其名が何んでも永見夏汀とかと云ふて居ったそうぢや云々」と、此宇宙界の中に少しでも名を残して死にたいとシキリと考へて居る。

それで早く一口に云へば寫眞界中に何か變つた新らしい試み、或は何か為になる事柄として自分の名を人々の記憶に留めたいと云ふ野心があるのだ。

ので此畫集がそれらの導火線ともなつて大に寫眞界の何かの為になる樣であるならば大滿足此上なしである。

僕は兼て美術寫眞なるものが世間一般の人に知られる樣にしたいと考へてゐるが、寫友諸君の或部分の人々の如きは變な考へを以つて一向に努力しない、殊に當地長崎の如きは昔時は日本中の一番ハイカラの地であつたのに今では寫眞界の振はないのみ、衰へて行きつヽあるのではない?故人だけれども内田九一、上野彦馬の二氏は寫眞界の大偉人として世間から尊敬を受けて居るではないか。こんな大寫眞家を出した現今の長崎否九州地方は特に振はない事甚しい!長崎、門司等は要塞地でもあろうけれども僕は此振はない九州を今一度關西關東地方の樣にはゆくまいが九州の美術寫眞界を盛大にしたいと希望してゐる。

自分一人で勇氣の努力のと叫んで居るが他の連中が真面目でないから困つて居る。

いつも汗水になつての得物を暗室の中ちにもつてゐつてみると例の失敗である失敗の種板は山程あると云ひ度いが成功とも云ふものはいくらさがしても見當らぬけれども展覧會や品評會で選にあづかつたり又思出多きものを此處に集めたものが此畫集である

勿論僕は未だ研究の深くない物だが此後個人展覽會或は畫集の發行をして諸大家及先輩諸君の方々に審査や、批評をしていたゞいて貰って益々研究をしようと考へてゐる。

それで今度出過ぎた事か知らんが!或人は下手なクセに云ふかも知れないが!畫集を發行して見た譯である、何卒か諸君の此後とても御指導を願ひ又永々的に、一時的でなく竹馬の友同樣に御交りを願ひたい。

終りに斷って置くが僕は決して筆の人でないから此本の中に字の誤りや文章の訂正があるとしても決して笑つてて下さらぬ樣に希望する。

大正元年十一月