光画図書室閉架書庫

写真史や撮影行為にまつわるあれこれを放り込む納戸。

永見徳太郎(1928.06)「寫眞雜考(二)」(写真雑考 2)(「明治文化研究 第四巻第六号」)

解説

三省堂の「明治文化研究」に掲載された永見徳太郎上京後の初期の仕事。写真雑考ということで、「写真に関する著書」「徳川慶喜と写真」「写真代金」「開業した外国写真師」「写真の抗議」という五つの小見出しが冒頭に掲げられているが最後の「写真の抗議」は本文にはない。続編にあるのだろうか。まだ確認していないが連番であるから前後の号にいくつか掲載記事があるものと思われる。

次の七号の国会特集号広告に「国家議員候補者列伝を手にして」の題で永見執筆記事の掲載予告があるがあまりに記事が多くなったことで分冊するということで掲載されず。分冊した分の記事について掲載が予告された9月号に当該記事の掲載があるかは今後の課題。

著名な人物や有名な資料から今ではよく分からない人物や書名までが登場するが、一部の外国人のカタカナ表記が現在と違うのは注意。頻出する「ビワト」は「フェリーチェ・ベアト」のこと。また、冒頭に登場する”大牛葉而列(ダギユエルレ)”は櫻所散人という人物のまとめた「印象啓徴」という書物に登場する表記と思われるが、文脈からいってダゲールのことである。

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和蘭博士ジヲスコリデスなる人物が出てきて、はて?と首を傾げたところこの方のペンネームらしく。

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ハルティングの今でいうならSF小説『西暦2065年』を近藤眞琴が訳したのが日本最初の翻訳SF小説『新未来記』で、この明治初年の訳文のなかに写真の発明が簡潔に記されているとのこと。

また後半部について、この当時写真師は有名人の写真を撮った場合はそれを焼き増しして売っていて(のちのいわゆるブロマイド写真)それが大人気であったというのを念頭においておくと分かり易いかと。ある種のメディア的な役割も担っていたわけだが、海外では既に当たり前であったにしろ、封建国家の最高権力者の写真を撮ってそれを売ろうと広告を出したのはさすがに物議を醸すことになる。

まさに雑多な写真エッセイという所で今だから興味深く読めるところも色々あり他の掲載号もおいおい探していく。

* なるべく原文のままに起こしていますが、一部書体や繰り返し記号、割り注などPC上では表しにくい部分、漢文に施された訓点、行末の句読点の省略などは適宜補い、または省略していますのでご承知おきください。あくまで個人の研究用のメモです。

* 2022/01/23 田浦ボンさんのご指摘を受け誤入力等を修正

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寫眞雜考(II)

寫眞に關する著者 ―― 德川慶喜と眞寫 ―― 寫眞代金――
開業した外國寫眞師 ―― 寫眞の抗議

寫眞に關する著書

 歐洲に於て、寫眞術が發明されると、間もなく我國に於ても、その研究が初まつたのであつたから、寫眞に關する著書も案外早く現れて居るのである。

 寫眞は、風俗・人物・名所等を記念するに、最も必要のものであつただけ、來朝する外人にて、早やくも、その術を試み傳へるものがあつたから、著書にあつても、出鱈目なるのは無かつた。

 杉田擴玄端は、「寫象新法」を著して、銀板法を說き、櫻所散人は、「印象啓徴」を、大牛葉而列(ダギユエルレ)の法に依り譯述し、「寫象新法」と共に寫本として傳へた。

 川本幸民は、「遠西奇器述」中に、眞寫影鏡ダゲウロテーピーを述べ、その著書は、嘉永甲寅仲冬新彫、薩摩府藏版で、これは薩公島津齋彬の命に依り、川本幸民が、長崎滞在の蘭人フアン・デル・ベルグの理學原始より出たものであつた。

 「寫眞鏡圖說」は、鵕樓著述書目には、「寫眞鏡圖說」初編至五編 編一冊とあるが、これは二冊だけ出版され、三編は二編の巻末に、近日三編の嗣刻を期すと書いてあるが出版されて居ない。その挿繪等は、正確なものである。慶應二年秋九月 江戸日本橋四日市和泉屋半兵衛の發兌。

此著書は、水戸烈公の命に依り(?)楊江、柳河春三が飜譯したのであつた。

 上野彥馬の「舎密局必携」は、不許他見の秘書で、門人植松柳谷等に傳へたもので、外國原書を多く参考とし、後、これは、三冊の版本となつたもので、文久二年の譯。撮形術ポトガラヒーは、その附錄であつた。

 明石博高は、原書より和譯した「撮影須知」を出して居る。

 明治元年に、原書「紀元二千六十五年」和蘭博士ジヲスコリデス著を、近藤眞琴は譯述し「新未來記」の中に、寫眞の發明を簡単に記して居る。「脫影奇觀」は唐本にて元・享・利・貞の四冊にて、明治五年の發行。

 「寫眞新法」は、熊谷直孝編纂が、明治十一年五月十八日、嗜學堂藏版として、公にされたものである。

 明治十九年には、松崎晋二が、「寫眞必用寫客の心得全」を現はし、寫場の心得を一般人に委しく述べて居る。

 「光力畫全畫」寫本。「寫眞術全書」四冊、寫本。「寫眞全說」。「寫眞傅」。等の著書があるとの事であるが、私はそれを未だ見る機會を得ない。

「實地寫真術」は、ダブルユー・ケー・バルトン著を、石井八萬次郎譯し、明治二十四年發行。「光線並寫眞化學」はフオゲル博士著小川一眞譯、明治二十六年發行。 

「素人寫眞術」は、有藤金太郎纂譯、明治二十七年發行。

「寫眞新書」は、バルトン原著石川巖譯、明治二十八年發行。

「最近寫眞術」は、瀧澤賢四郎著、明治二十八年發行。

 日淸戰爭後より、現代に至るものは相當の數があるが、此處には略する事としよう。

 寫眞の雑誌で、嚆矢とするのは、「寫眞雜誌」である。「寫真雜誌」は、明治十年十一月、第一號を創刊として、澤澤要橘(※本文ママ 深澤要橘の編輯であつたが、第二號 は、「ホトグラヒー」と改題され、第三號は、「脱影夜話」と改まり、明治十三年四月に、再び「寫眞雑誌」の名に歸り、その第一號を改めて出したのであつた。

「寫眞新報」は、第一號を明治二十二年發行。

「寫眞月報」は、第一號を明治二十七年二月、小西本店より發行。

「寫眞叢書」「寫眞要報」「大日本寫眞協會々誌」「寫眞界」「寫眞師」「寫眞」等も次次にと、現出したのであつた。

 「寫眞術講義錄」は第一巻を、明治二十九年、伊澤雄司が講演したもので、寫眞の講義錄として、 最初のものではあるまいかと思う。


德川慶喜と寫眞

 將軍徳川慶喜は、早くより寫眞術に注目して、御用寫眞師數名を抱へて居た程であつた。

 長崎の人龜谷德次郎は文久二年、京都に召され て御所の寫眞師となり、後、我國の女寫眞師の嚆矢となつた娘とよを連れて智恩院境內に住み、御用寫真の撮影を勤めて居たが、伏見鳥羽の合戰後 故郷へと歸つて行つたのである。

 吉竹永胤は、慶應三年の時父と共に將軍に隨行して上阪した事がある。彼は一橋家の寫眞師であつた。

 慶喜肖像の寫眞が、數葉殘つて居るが、これ等は、英國人某、龜谷德次郎、吉竹永胤、船橋鍬次郎、內田九一、森田孝吉等の撮影になるものと思はれる。

 船橋鍬次郎は、開成所繪圖方に勤めて居たが、將軍の命に依り、京都二條城內、同本丸、將軍御旅館、同御厩、同愛馬飛電等を撮影した。中でも二條城內の二種には、彩色がある、是は、將軍自身、筆を取つて色を着けたのであつた。

 明石博高は、寫眞機を歐洲より購入せんとしたが資なく、慶喜に歎願したので、慶喜は、彼の爲め、和蘭より取寄せ下附したので、日本最初の大板寫眞を、京都、奈良に於て試みたのであつた。

 內田九一は慶應二年、將軍江戸に歸還するや、彼もその艦に陪乗を許されたのである。一說に京町奉行大久保主騰守家來某、寫眞術を能くしたと言はれて居るが、この某は九一の事であるとも傳へられて居る。

 慶應三年五月十四日、大將軍慶喜は、松平春嶽及び島津久光、山內容堂、伊達宗城を招き饗し、自ら寫眞を撮影したこともあつた。

 慶喜は、勤王倒幕の政變の後、祖先發祥の地の靜岡に退さ、西草深川町に、老の身を養ひ、つなづれのあまり、江戸の人にして、同地にありし德田孝吉に請ふて、寫眞術を練り、駿・遠・參三州の 名勝四蹟を悉く、寫眞鏡に納めた程の熱心で、技にも進步の跡を見せたのであつた。

 明治二十三年頃に、撮影した靜岡浅間神社之景等を初め、多くの寫眞が、德川慶久家に現殘されて居る。

 田中光顯が、父に寫眞及び書翰を送つた一節に

    且奸賊德川慶喜(一橋也)の奸像も御一笑之為差出申候、是は迚も私抔之手に入候事は六ヶ敷事に御座候へども、英吉利人より伊藤春輔之もらひ候物にて、夫れを私がもらひ申し候也(※本来は一段下げた上で級数を落としてある。以下青字は同様)

 時世だ、飛ぶ鳥落す將軍の肖像に向つて、奸賊といふ憎しみの文字が、用いられてある事も、その頃の思想を、よく語るものであらう。

 慶應三年の横濱出版「萬國新聞紙」には、横濱の外人寫眞師ビワトが廣告に

    此度手前方之、蒙御免忝くも大君の御姿を奉寫候

 と、慶喜を、大君と誤 呼んで居る。(途中の空白はママ)

 慶喜は當時の新人の一人で紅毛人の洋服を着け、外國人に寫眞をとらせたりしたので、閣老の間で は一大事とばかり相當の問題となつたりしたのである。頑固な武士が多かつたから。

 明治以前の慶喜像の寫眞に、煙草を飲んで「資治通鑑」の本箱を傍にして寫つたり、征夷大將軍の衣冠や鐵砲と並んで寫つたりしたのがある。


寫眞代金

 寫眞術に依つて生活してゆくという事は初期時代には思ひも依らぬ事で、上野彥馬が文久二年十一月開業してみたが、誰も寫りに來てくれなかつた。

 その源因は第一に迷心、第二に新らしい仕事の 爲に安價でなかつた關係があつた。

 上野彥馬は開業しても客がなかつたから、研究の爲めと宣傳の爲めに禮金を出して寫つて吳れる事を歎願した位であつたが、彼の技術が認められると一躍繁昌をつづける事となつた。開業當事は一枚二朱であつた、後、小板三枚にて二朱と改まり、世が進んで明治十六年頃より、彥馬の晩年である同三十七年頃迄には

 小板一圓 中板二圓 四つ切五圓
 引伸四ツ切二圓 同全紙十圓

 であつた。西洋人の客は右の價の二倍と定めて居た。上野の名人だといふ評判は西洋人にも知れ渡り月千圓以上千五百圓位の収入が平均してあつたのである。西洋人は普通五ダース位寫し、多い時には八百枚も寫すといふ風であつたから、上野は、益々繁榮し、彥馬の袂も、弟子の袂もお金が一バイ這入つて重かつた位であつた。

 長崎に杖をひく、他郷の人でも一人にて百圓の寫眞を買つたものも、次第に現れて來た。

 西洋人の中で露西亞人が一番金使が荒く、東洋艦際の入港の時には一日に三百圓・五百圓といふ收入があつて一ヶ月一萬をあげたこともあつたとの事である。

 文久年間の「横濱奇談」には、下岡蓮杖の件りに、

 價はギャマンの大小によりて、二分位なるも壹兩・貳兩なるもあり

 と記されて居る。

 長州征伐の時、「講武所隊士の日記」の中には、

 一金一分と百文 寫眞代
 一金二分 寫眞二枚

 と書留られ、慶應三年十二月の「萬國新聞紙」の横濱滞在の外人ビワトの廣告文には

 代金壹分貳朱

 と書かれてある。回四年五月「中外」には淺草三社吳竹亭の記事に

 紙寫し 三枚ニ付 金二分二朱
 玻璃板 小形 二朱 中形金三朱 大形金一兩

 伏見鳥羽戰後、長崎に歸つた龜谷德次郎は濡板にパピー ル(鹽紙)一枚金1分で賣つて居たのであつた。 

 內田九一は後年淺草にて開業をして非常な全盛で、「隅田川に內田橋をかける。」と豪語したのであつたが、長崎時代には問題にならなかつた。無代で寫して居たが、經費が入るから、その實費として百疋を貰つて居たので、寫りに來る人達は、百疋の金數に肴や反物を持つて來たのであつた。天氣の惡い日には休業して居た時代である。

 明治初年時代の東京を記述した「東京新繁昌記」には、內田寫眞館の説明を爲し、

    每店の寫料、同じからずと雖も、約ね玻璃に寫せば、則ち二十五銭、紙に寫せば、則ち五十錢、乃至七十五錢なり。一寫叉た十紙に寫す可く、十紙叉た百紙に傳ふ可し。亦た妙工夫ならずや。偶名家の名妓寫を乞ふ者あれば、則ち寫師又はこれに寫し、而してその餘影を鬻ぐあり、寧ろ寫料をその客に致して可なり。輓年、寫眞の社に入るもの益々多く、頓に寫料を減ぜり、横坊の某先生、その傍に掲げて日く、當分寫料金一朱、紙寫は則ち金二朱なりと、何ぞその落魄するや。

 と言つて居る。 

 明治十年の頃には、淺草奥山に天幕張の早取寫真が田舎者相手に賑つて居て、桐箱入のガラス寫真が一枚十錢であつた。

 代金を寫眞家が、受取ると言う事は夢にだにしなかつたばかりでなく、反つてモデル代を支拂つて居た先覺者達は、明治初年後の寫眞館の繁榮には驚愕したであらう。…その時勢の変轉と共に………。

 年代と寫眞代金を比較して見る時、其處に現はれたる數字が寫眞の發達をよく示して吳れるであらう。


開業した外國寫眞師

 外國人が我國にて開業した者は案外僅少である。

 殊に寫眞術の發祥地である長崎に於ては、事實開業したと思はれる者は佛人ゴールトで、彼は明治初年大浦民留地にて寫眞館を營んだものでないかと考へられる。此ゴールドは、後大阪川口に在つて寫眞館をつづけ、その技術は最も知られ立番附の大立物となつて居る。

 チヤコラといふ寫眞師は、何處人であるか知られないが、長崎にて開業したとも傳へられる。

 横濱では、横濱十六番に、ハリサーが、開業して居た他に、ビワトがあつた。

 慶應三年十二月橫濱出版「萬國新聞紙」第九條に、その廣告が有るから彼は外人寫眞師として最も古い者ではないかと考へられる。

    私儀寫眞鏡渡世仕候處、此度手前方之、蒙御免忝くも大君の御姿を奉寫候、御望の御方は、私宅え御出可被下候、代金壹分貳朱。

    横濱二十四番ビワト

 大君とは、德川十五代將軍慶喜を指すのである。外人の寫眞館は、自宅又はホテル等にて看板等掲げず、撮影して居たのかも知れない。外人寫眞師の營業をしたるものが少ないところを見ると、外國からワザワザ專門家が來朝しても勘定が合はぬ事、外人に對する個人營業は、當時八ヶ間敷かつたのではあるまいか?。

 

(参考リンク)

events.nichibun.ac.jp