書肆萬年床光画関係資料室

写真史や撮影技術、カメラ等について研究趣味上のメモ置き場

吉川速男「カメラと生活(戦時中の想出)」「カメラと戦災」

吉川速男(1890-1959)の『写真入門』(1946/アルス)から、後書きに当たる部分を。

戦前のアマチュア写真の盛り上がりに歩調を合わせて戦後1950年代に及んで実に三桁の著作を世に送り出した吉川だが、今現在、ネット上で彼の名を検索してもWikipedia(ja)には独立の項が無く、かえって 彼の写真集である『カメラと機関車』になぜか単独項があるあたりにWikipedia上の写真史情報の偏りがあるといえるか。

カメラと機関車 - Wikipedia

実のところ東京都写真美術館叢書の『日本の写真家事典』(2000)にも彼の項目はない。(日外アソシエーツの『日本の写真家』(2005)にはある)

幸い、JCIIが公開している「写真人とその本」のシリーズでは比較的早く(全45人のうちの6番目)に彼が登場している。

写真人とその本 6 /吉川速男 (PDFファイル)

小・中学生時代は慶應義塾大学で同級生だった野島康三と写真同好会を結成していたらしい。鉄道写真の方面での活動は比較的知られている方だと思われるが、8mm・16mmの動画やステレオ写真方面でも幅広く活動していて、佐和九郎などもそうなのだけれども、むしろ現代の「写真表現」の視点から過去を眺めたときに本来的に写真・動画を横断して(通底するものとして)映像表現に取り組んだ彼らのマルチメディア的な活動(写真と動画を別物として切り分けてしまうのはむしろ新しい現象)の全体像を捉え損ねてしまうところはあると思われる。

閑話休題。この『写真入門』は戦後1946年、物資不足の中わら半紙のような粗悪な紙でパンフレットのような薄さで出版されている。敗戦の物資不足の中、まだカメラメーカーも感材メーカーも、出版社もなにもかもがまだ復興の端緒についたばかりの状況だった。

吉川は戦中も写真入門書を出し続けて、物資不足のなかどのような手段で代用し撮影するかを提案し続けていた。それがいち早く、彼自身焼け出され、何度か死線をくぐるような状況を経てなお、戦後の荒廃のなか確信を持って写真入門書を送り出すことが出来た事情であろうか。

彼のように長い期間、指導的な立場でエッセイ的な文章を書き続けてきた作家からは時代の奔流の中でそのときどきにどのような態度表明が求められたのか、その変遷も読み取り得て興味深い。

いずれこの本の前文の側も起こすつもりだ。

※ 字体等は文中のものに従ったが、PC上では表現できない書体もある。一部組み版ルールに従って省略された句読点を補うなどしている。あくまで個人研究用のメモである。

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カメラと生活

(戰時中の想出)

自分がカメラを手にしたのは十二歲の時であるが、それから孫を持つ此の年になるまで殆んど一日としてカメラを手から離したことはなかつた。それが太平洋戰以來終戰に到るまでの間、思ひもよらず一時中斷されてゐた。

物は失はれ易い。然し私の頭はカメラを失はうが、使用を中止して居ようが、そんなことでは少しの影響はなく、依然豐かな日光を見ては嬉しかつたし、爆擊下に春から夏、夏から秋と變化して行く野邊や汀の眺を寫眞の頭を以て落付いて味ひ得た。これがどれ程私を慰め元氣づけてくれたか判らない。

昭和廿年六月、その頃は終戰も近くであり、叉空襲の最も激しい頃であつたが、私の避難してゐた四日市と桑名との間の寒村朝日村も日日燒夷彈や大型爆彈に脅かされて居た。

此の中に私は心ゆくままに晚春から夏へかけての農家の仕事、野草、野鳥、昆蟲の生態を觀察する機會に惠まれ、非常に嬉しく思つた。

なほ生れて初めて焚木を積んだ車を曳き、時には農會から配給米を擔いで來ることもあつた。

「カメラより重き伊勢路の米運び」

その時の駄句である。拂曉戶外の庭先に星を仰ぎながら飯を炊く、初めは慣れなかつたが今は上手になり及第である。漸く明るくなる邊りの森、それが軈て旭光に赫く描き出される美しい自然界の姿は罹災してこそ味はれるのだと思つた。或日空襲の相間を見て辛じて奈良の野へと旅立つた。

勿論カメラなど絕對に使へぬ戰時下の旅であるから、前に度々この地へ來た時とは全く變つた氣持である。然し寫眞こそ寫さないが、見る眼は矢張り光の强さとか色彩の變化とか、眺める風景の構圓などいつもと變らぬ心であつた。カメラを持たぬ旅、然し同じく心の感光膜には强く寫眞が寫つてゐるやうに感じたのである。

櫻井の驛の乘換の四時間待合せに、空を眺めては敵襲を心配した其れと共に、眼には間近の大和三山の姿が萬葉の昔のまゝに映じる長閑さ。これが戰爭中かと考へずには居られなかつた。

遙か春日の山つづき、南に遠い龍王山の山腹の或る村の狹い道に、崩れた土塀をしきりと手入れしてゐる農夫があつた。强い陽の光は黄色の土塀の芯までも貫く程に明るく照つて、壞れて行く物を保たうと努力する人の働きと强く私の心に映つた。破壞から建設へ、これはそこばかりの事ではなく、今日本全國の實際の姿ではないかと想出して考へてゐる。

この平和な大和の空も其の時は戰時色で一杯になつてゐた。 私が昔のまゝの心で立つ山腹の古墳群の上にも盛んに橙色をした練習機が低空飛行で激しいエンジンの音を立てて過ぎてゐた。 私は地表に表はれてゐた土器のかけらの幾つかを拾つた。

それから數刻の後、 私は丹波市へ向ふ街道を洋傘をさして一人步いた。此の邊りでもし爆擊に遇つたら何うしようと考へると同時に、その不安はいつか遙か山腹に見える西山の古墳に掻消されてゐた。 カメラが欲しいなと思つて何氣なく腰に手をやると、カメラならぬ辨當の包のみであつて一人苦笑した。

天理敎社の境內のクローバーの一面に靑々と生えてゐる原に腰を下して晝飯にする。

私はこれまで如何なる旅にもカメラを持たずに出た事がないのに、今日こそはカメラの無いことに物足りなさを感じたと同時に、此上もない氣輕さからこれを機會にカメラからさつぱり離れようかなどと考へても見た。

いやいやそれは間違つてゐる。もし今自分等が寫眞といふものを全くやめるとしたならば、向うの彼の山の麓にある法隆寺なり法輪、法起寺なり、或は彼方に遠くある東大寺や興福寺その他この野邊に散在する吾々祖先が殘した。偉大な文化を如何なる方法によつて世にとゞめ、世に紹介することが出來ようか、寫眞は私一人に與へられた使命ではない。この利器を以て日本中の人々がそれぞれ自分の關係ある方面の仕事に利用し、硏究の道具として飽くまで廣く深く使つて行かなければならないであらうと考へ直したのであつた。

夏の春日野は綠に燃え、老杉は勢よく天に向つて伸びて行つてゐた。 たびたび此處はカメラを働らかせたところ、此の日だけは空手でたゞ眼から美しい眺を心ゆくまゝにむさぼつて吸込むやうな氣持で居た。

なだらかな高圓(たかまど)の山も、いつもの如く懷しく、三月堂の觀世音も變らぬ慈愛に滿ちた眼ざしで靜かな堂の中の一人の自分を見下してゐた。 此の時私は何時の將來か知らぬが今度平和に立返つた時にこそ、私は思ふ存分にカメラを再びここに活躍させなければならないといふ强い決意を固めた。

その翌日は一日燒跡の東京とは天地の差がある京都の市中に出て、そして夜は叡山の麓高野川畔の親戚に落ちつき、 再び不安な電車の旅にかつて一々步いて訪れた西大寺唐招提寺、藥師寺を窓近く眺めつゝ近畿山脈を東に越えるや、はからずも前夜の空襲に尙も炤々と燃えつある四日市の大火災の中を汽車で突破することになつた。

桑名の燒失、終戰、と再び住むに家を失つた東京へと戾つたものゝ轉々と流浪の生活をつゞけたのである。然し私は何時如何なる時もカメラといふものを忘れた事がなかつた。それが私の數度の罹災にも私の氣持を少しも變りないで保たせてくれたのであつた。

私は今日何ういふ氣分でゐるかと尋ねて下さる方々があるが、私は彼の日奈良の三月堂に決意したその撮影の計畫に今や私の餘生の全部を投出しているかゝるつもりであると答へた。

戰爭は私共には非常な苦痛を與へた。然し私は自分一個の人生には實に得難い多くの事物を敎へてくれたのであると感じてゐる。第一に運と云ふことであるが、天から遠慮なく落される爆彈、燒夷彈、機銃掃射の一通りを何回となく身近に受けて、當らぬ者には一つも當らぬこと、これは運命と思ふ。步き度くないに餘儀なく諸所方々と步かせられ、新らしい生活に肉體勞働も覺へさせられた。然し私は損をしたとは考へてゐない。


カメラと戰災

實にカメラどころではない、尊い人命から巨萬の富や領土さへ失はれた大戰爭、しかし今幸と命だけは全うした私は、假寓生活の中に、時に全國の寫眞家が何うして居られることやら、嘸や澤山のカメラや得難い作品も失はれたことであらうと考へたりする。

自分は日本橋、京橋、大森、大久保と罹災を重ね、疎開の荷物を送出せぬばかりに過去の所有物の一切を失つて、唯失はなかつたものは、生命と元氣と手に握つてゐるのは單玉の箱型豆カメラー個、家もなし寢具すら持たず、家族もばらばらに生活してゐる有樣であるが、相變らずカメラへの鬪心は少しも變つてゐない。

辛うじて求め得た現像藥と定着藥を目分量で液に溶き、ベークライト製辨當箱をやうやく探し求めて寫眞用と食事用に兼用して罐詰の空罐利用のタンク現像器まで案出して未だ寫眞趣味を樂しんでゐる。

私の復興は先づ寫眞から。而して過る日燒跡の或る店で古い高級機を求めることが出來た。闇市では小道具を求めた。ネジ、サンドペーパー、半田、ゴムノリ順々に手に入つてくる。

原稿用紙の手製、インクの手製、實にこの頃の自給生活は多忙である。それと云ふのは到底過去の水準にまで賣品を以て復活させるなどは當分思ひもよらぬからであるが、一方考へれば如何に巧妙精緻な道具も原理は簡單なものであつて、少しく工夫をこらし、努力を惜まなければ、敢て手製も不可能ではないと信じるからである。而して同じく造る以上は、少しでも進步させたいとまで考へて居るのである。

そこで、私が先づ順々と製作して行かうと計畫して、それを出來るだけ本書に揚げたわけで、幼稚な設計ではあるが、一つとして架空ではないつもりである。

全國の罹災寫眞家の方々が、私と同樣な試みから各々創意を加へられるならば、如何に珍らしいものが生れるだらうかを考へると、それを知ることが實に大きな樂みであり力である。幸と生命を保つて終戰を迎へることが出來た者は、誰れ一人として今後の日本の再建に責任のない人はない筈で、それを想ふと、老境に一步を踏入れたとはいへ、私は靑年諸君と同じ氣持で元氣で生活できる。

戶外は天日燦々、赤城颪と筑波颪にこの間まで荒寥たる野であつた武藏野は、今や一面の綠の畑に變つてゐる。小鳥は春の唄をうたひつゝ硝子窓の全部爆碎してゐる自分の假寓の窓に躍つて、元氣で起てよと促がしてるかの如くである。私は關東の大震災の日にも此の通りの憂目にあつて今は二度目の經驗濟である。又あの時の如く笑つて再生に向はうとして居る。實に人間は生きるためには苦勞するものであるとつくづく思ふ。その苦勞も軈ては想出の一つになるのだと思へば樂しい。想出のない平凡な人生は空虛なものかと考へて居る。私の手中の愛すべき單玉箱型カメラと、新調ではあるが過去の霸者、此二つが如何に活躍するかを今より御期待願ひたい。

茲に讀者諸君のご健祥を祈りつゝ本書の執筆を了る。