光画図書室閉架書庫

写真史や撮影行為にまつわるあれこれを放り込む納戸。

薄雷山(薄恕一)(1910)『雷山畫集』序文と雑感

薄雷山(恕一)が1910年に出版した『雷山畫集』(雷山画集)を買い求めましたので、その序文を起こしました。あと雑感を多少。

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何を持って「写真集」と定義するかは議論となるところですが、個人による写真集として日本で最初期の一冊であることは確かです。

相撲に由来する言葉として後援者の謂いである「タニマチ」の語源となったとされる薄恕一については、Wikipediaの彼の項には残念ながら写真家としての活動は載っていませんが浪華写真倶楽部に参加しその初期に活躍した写真家の一人です。

薄恕一 - Wikipedia

タニマチ - Wikipedia

浪華写真倶楽部 - Wikipedia

別冊太陽「写真集を編む。」を眺めていると巻頭特集で光田由里が福原信三の『巴里とセーヌ』(1922)を日本で最初に刊行された写真集ではと書いていましたがこれは「刊行」の意味をどうとるかかな、と。

同じく浪華写真倶楽部に参加していた永見徳太郎には同時期にこちらも最初の個人写真集ともされる『夏汀画集』(1912)があるのですが、よく読めばそこへの米谷紅浪の寄稿から『雷山画集』(1910)が先行することがわかります。また、米谷の記述から浪華写真倶楽部界隈のなかでも先駆的なものだったようです。

photoworks.hatenablog.com

参考に『芸術写真の精華』を捲って飯田湖北の『湖北写真印画集』(1914)を見つまして、気合を入れて重いこの本を引っ張り出したら載っていました。

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やはり印刷は桑田商会で、先行する『雷山画集』『夏汀画集』とも装丁、命名規則といい通底するものがあるので桑田商会が取り扱ったこの時期のものに共通したフォーマットだったと思われ、きっとまだ同種のものがあるだろうという予感がしますがどうでしょうか。

『湖北写真印画集』については先日亡くなられた金子隆一のこちらの講演録でも多少触れられています。

takumisuzuki123.blog.fc2.com

さて、雷山画集です。小口は金付けされ、高級感があります。

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この雷山画集は作品ごとに解題の記された薄紙と印画が見開きになるように構成され、また印画のページには写真と題を共通する俳句が添えられているところに特徴があります。最初期の写真集ですが、すでに作家の明確な構成意識のもとに編集されていることは注意を引きます。

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前置きが長くなりましたが、ではこの写真集に付された序文はどのようなものだったのか。

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好きこそものゝ上手なれてふ語はたしかに一分の眞理を含み下手の橫好きなる語にも亦動かすべからざる適例を見る、予の俳句と寫眞に於ける正に其後者に屬すべきものなり、今は近江の義仲寺におはす露城宗匠に就て俳句を學びしも既に十有餘年の昔にて、寫眞に指を染めしより又碌々茲に七年の星霜を閲しぬ、然り而して未だ嘗て會心の作を得出さず況んや傑作とかいふものをや、想うて一たび是に至れば心ひそかに忸怩たらざるを得ざるものあり、顧ふに寫眞は無聲の詩にして俳句は正に有聲の畫なるべし、是に於てか寫眞と俳句に連鎖を與へ餘韻脈々たる無聲詩の上に簡潔明快なる有聲畫を配し兩々相待つて美を完つたからしめ茲に初めて一新機軸を出だすを得ば或は多少斯界に貢獻することのありなんものをと疾くより之れを企圖して汲々たりしも所謂下手の橫好き奈何せん、寫眞の技は平凡にして上達せず俳句素より未だ月竝式の調を脫せず搗てゝ加へて繁劇なる刀圭の業務は今日に至るも尙且所要の暇を與へず、是を以て未だ之れを世に公にするを得ざりき、さるをこたび同好諸士の援助により兹に初めて「雷山畫集」と銘を打ち其第一輯を世に送り出だすことゝなりぬ。素より瓦礫の作のみにして素志の一部分を果せるに過ぎず。伏して願はくば大方の諸士幸に高敎を垂れたまふに吝なるなからんことを。筆を擱するに 臨み尙一言を敍して敬意を表すべきものありそは本畫集の發刊に就て桑田濶山君の終始其勞を採られたると本作品に對し丸山晚霞畫伯の細密なる批評を辱うしたるは著者の光榮として滿腔の誠意を表し深く感謝する處なり。

明治四十三年九月

メッセルをペン軸に執りかへて

著者謹誌

* なるべく原文のままに起こしています。一部変体仮名や合字、繰り返し記号などPC上では表しにくい部分、行末の句読点の省略などは適宜書き換え、補っていますのでご承知おきください。

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日本での個人による写真集の原初形態において、作家自身が「顧ふに寫眞は無聲の詩にして俳句は正に有聲の畫なるべし」と俳句と写真を通底するものととらえ、共通の題のもとに構成したことはその後の写真史のなかで俳句と比較する議論がメインストリームではないながら、むしろ大衆寄りの世界でなんども浮上してくることを踏まえて興味深いのです。

ただ、後世のそれと、この当時では位相が違うように思われるところもあるのですが、今はメモをしておくにとどめます。当時において俳句や和歌も現代文学であり革新運動の最中にあったことは念頭に置いておきたいと思います。

薄の写真と俳句に批評を寄せる丸山晩霞は著名な画家です。

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一時自ら句誌を主催し洋画も描いて入選し、凡作ではあるでしょうが文芸の世界でもその片隅にはいて南蛮美術の研究家でもあった永見徳太郎もそうですが、この時代の文人を一つの側面だけで捉えようとすると見誤ります。薄雷山には雷山詩鈔という戦後の著作もあるのですが、この場合の詩は漢詩のことです。跋文から全て漢文で私には歯が立ちません。

さて、最後に永見徳太郎の『夏汀画集』が日本最初の個人写真集という認識は戦前の名だたる写真家たちにもある程度共通認識になっていたらしいことは戦前「カメラクラブ」誌の座談会(1939)からも分かるのですが、そうでないことは先述の通り永見の写真集への米谷の寄稿が示しています。

この時点で夏汀画集からは約30年が経っており、永見の記憶も曖昧だったのか色々と時期がずれていることが読み取れます。おそらくは1932年の「古写真」(この時点で幕末明治初、または明治期は"大昔"であるということは意識しておくべきです)研究書である永見の『珍しい写真』(1932)序文で曖昧なまま言い切ってしまったことがこの認識を作ったのでしょう。

この座談会で永見を囲んでいる著名な写真家達は芸術写真の時代とは切れていることもあります。そういう意味で、芸術写真の時代に活動して、この時代は古写真/写真史の研究を続けるとともに舞台写真分野の職業写真家であり、趣味写真の初心者向けの文章を書き続けていた永見という人の立ち位置は面白いものではあるのです。

photoworks.hatenablog.com

これは米谷の寄稿文を起こしたときに書いたことですが、そもそも誰が最初かということはそこまで重要では無く「当地の同人間に幾多の計画聞きしも未だ」という記述からも、芸術写真が隆盛を迎えて作家個人の作品を個展あるいは作品集として発表しようという雰囲気は既に同時代に横溢していたし、これも先に述べたように、未だ知られない同時期の写真集はまだある可能性があって、そういう状況を踏まえて登場した作品群であると捉えた方が建設的に思えます。

最後に当時、個人写真集は自費出版で(写真を中心においた書籍の流通はすでにあったが)、この明治末大正初にあってそれが可能な人物たちというのは、飯田については殘念ながら来歴を知らないのですが、この出版が可能であったということは、薄や永見と同じく、功成り名を遂げたひとかどの人物達であっただろうというのはその後への継承と断絶を考えるうえで押さえておきたいところです。