書肆萬年床光画関係資料室

写真史や撮影技術、カメラ等について研究趣味上のメモ置き場

M3神話解体試論 (2018.1.3版)

(追記 2018.01.09) 一通り書き上がってはおり論旨の大枠に変更の予定はありませんが、お読みいただいた皆様からご指摘をいただくにつけ史実の前後関係の整理や論証部分に不足を感じ、現在当時の資料や実機を追加で収集して書き直しを進めております。そのような暫定版としてお読みいただければと思います。

問題提起
いわゆるライカM3にまつわる「M3神話」(=あまりに高度なM3の登場がライカを目指した日本メーカーを諦めさせ一斉に一眼レフに方針転換する契機となった云々)は、事実に反した神話・伝説の類いである。

  • この言説はM3登場当時から流通していたものではなく、50年代から遠く離れて実情が分からなくなった時代に、当時の開発者などによる本来は様々な前提条件を踏まえた上でなされた証言をもとに、それぞれの文脈から切り離されたうえで形成されたものと考えられ、穏当に言っても大量の注釈なしには受け入れられないものである。
  • この神話が流通することの問題は何であるのか。以下の三点であると考える。
    • 端的に事実に反していること。むしろM3は35mm RF機の達成と限界を示した機種であり、M3登場前後には当時の高級RF機メーカー以外の動きで一眼レフが次の覇権を握る環境は既に整っていた。
    • まだ占領下であったその初頭から朝鮮特需を経て高度経済成長に至り、もはや戦後ではないといわれるようになる激動の50年代において、工業生産体制に起こった劇的な変化がカメラ・レンズ・フィルムをはじめとした写真文化を取り巻く環境にも波及し、爆発的な裾野の広がりと質の向上と変化が起こった。その50年代の熱気あふれる時代の動きの具体像を覆い隠してしまうこと
    • 一眼レフという写真以前からの歴史をもつ光学系がカメラに取り込まれ、大判、中判、35mmと連綿と改良を続けていくことで35mm機のデファクトスタンダードを獲得していくという改良史とそれに関わったメーカー、開発者の存在を覆い隠してしまうこと

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用語の定義
ここでいう「M3神話」とは例えばWikipediaにおける「ライカ」の項で述べられる以下のような言説に代表されるものと定義する。

1950年代ごろまでの日本のカメラメーカーはライカを目標にして小型カメラの技術開発を行なっていたが、1954年に発表されたライカM3はレンジファインダーカメラとして当時最高とまで言われるほどの技術を余すところなく投入しており、その性能の高さのあまり日本のカメラメーカーがそろって開発方針を一眼レフカメラへと大転換させるきっかけになった。(Wikipedia(ja)「ライカ」,閲覧 2017.12.16)

  • Wikipedia日本語版における「ライカ」の項は2004年3月6日に初稿が出ており、初期はごく簡素な記述であったが、明けて2005年1月4日にまとまった追記がなされ、このときには既にこの記述が登場している。しかしながらこの記述がなにに基づくものであるのか出典は示されていない。
  • 同種の記述は2017年現在のカメラ誌等の言説空間においても再生産され続けているのが現状である。

論説:1.「背景」

  • 50年代を通して状況はめまぐるしく変わるが、当初覇権を握ったのは二眼レフスプリングカメラであるスプリングカメラは戦前からの継承であるが、50年代にはリコーフレックスに代表される二眼レフの日本カメラ史に残る大ブームが巻き起こったことは忘れてはならないだろう。どちらもブローニーフィルムを使う中判カメラであることに留意が必要である。35mmフィルムカメラが覇権を握るには明るいレンズと、なによりフィルム自体の質の大幅な向上が必要であった。
  • しかし、50年代の中期にはスプリングカメラ二眼レフ共に"古くさいカメラ"であると見なされるようになり、二眼レフメーカーは急速に数を減らしていく。メーカーの過当競争と粗製濫造があったのも確かであり、品質で確実な支持を集めたメーカーはその後も生き残っていく。
  • 忘れられがちなのは当時の経済状況と貨幣価値。また各機種の相場である。50年代を通して状況は変わるが、一般にライカコピーとされるレンズ交換式RF機のうち高級ラインの方は当時の国産一眼レフより相場が上の場合が多いというのは意外に思われるのではないだろうか(補論参照)。なお、このジャンルで一番高価なのがキヤノンニコン、次にレオタックス、ニッカ、だいぶ下がってミノルタ、チヨカ、タナックであり、厳然としたランク付けがある。なお、時期はやや前になるが前段のリコーフレックスはこれらよりずっと安い値段で市場に登場しており、そのインパクトは大きかったであろうと想像される。
    • nicca 3-F(5L相当 / 1956?)+Jupiter-8 50/2 / Leotax Merit (1959)+ W-Komura 35/2.8

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    • Tanack IV-S (1955)

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  • 一眼レフは既に海外勢と日本メーカーとの競争で機構上の課題がクイックリターンミラー、ペンタプリズム、自動絞りでありレンズにおいてはレトロフォーカスであることは衆目の一致するところであった。これらの課題が着々と克服されることで特殊用途向けと思われてきた一眼レフが35mmカメラの主役を張るべく地歩を固めつつあることは理解されていた。
  • また当時の流通の事情により、国内で強力な代理店を確保できなかったメーカーは国内で思うように物を売ることが出来なかったと言うことには留意が必要である。一眼レフメーカーが海外に販路を求めた事情の一端である。
  • この頃、生産台数でいえば圧倒的に他形式を凌駕しており、また海外でも外貨を稼いでいたのは35mmレンズシャッター機である。なお、今は捨て値でジャンク箱に転がっているレンズシャッター機一台は、幅はあるものの公務員の初任給1~2ヶ月分であった。このゾーンが写真愛好家の層を急速に広げ、それまでの写真文化とは違う視覚体験を求めつつあった。
    • MINOLTA A-2 (1956) / Taron 35 (1955) / TOPCON 35 (1956)

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論説:2.「M3の登場を受けて起こった"実際の"反応」

  • 当時の写真誌を見るにM3は驚きをもって受けとめられているが"神話"の言うように日本のカメラメーカーの開発路線を一斉に一眼レフに切り替えさせるようなものではなかった。これにはいくつかの理由が考えられる。
  • 一つにはM3は非常に精度の高い機種ではあったが機構的には既知のものがほとんどでそれを35mmのコンパクトなボディにバランス良く高精度にまとめたものという実態を見つめるべきであろう。M3自体がライカだけではなく広く世界のカメラ史の相互の影響関係の中で生まれてきた結節点としてあることに注目した方が様々な気づきがもたらされるのではないだろうか。
  • また、もちろん戦前の価格と比肩するものではないにしろ、ボディ単体で公務員の年収に匹敵したM3は依然大変に高価な機種であり、当時の国内メーカーとすぐに競合するような価格帯の機種では無かった。例えば海外自動車メーカーが1000万~億クラスのスポーツカーを登場させたとして、それは確かに衝撃だが、国産車と直接競合するものではなく市場は両立するということは理解しやすいのでは無いだろうか。
  • むしろ記録を見る限りで国内RF機メーカーの対応として起こったのはM3の機構/発想/デザインの部分的な取り込みである。例えばAiresはM3についての事前情報からブライトフレームの採用を読み取り、M3の実機を確認する前に自社のカメラに取り入れている。
  • またM3登場以後もライカはバルナック型の生産を続けざるを得なかったと言うことに考察が必要と考える。当時の企業規模、生産体制で複数のラインを維持することは企業にとって大きな負担であるが、カメラとはシステムであり周辺機器を含めての使い勝手であって、如何に単体として優れていたとしてもM3が登場したからと言って即座にM型に収斂するほどのものではなかったことを示しており、これは日本のライカコピーメーカーにとっても同様だったはずである。もしM3が出たからといって、本当に即座に一眼レフに舵を切っていたら、メーカーは市場からそっぽを向かれ退場しかねなかっただろうと思われる。そこは空き地では無く国産一眼レフメーカーの群雄割拠が始まっている戦場だったことを見逃している。

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  • 従って、M3の登場を受けて日本国内のライカコピーメーカーがとった戦略は「バルナック型コピー機にM3の要素を取り入れて改良しつつ、M3対抗機を開発する」であったと考えられるし、実際にメーカーはそう動いた。NikonのSP、キヤノンのVT系、ミノルタミノルタスカイ、LeotaxのLeotax G、Nicca III L、Tanack SD/V3がこれらにあたる。
    • Nicca III L (1958)

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  • 以前から一眼レフを開発していたメーカーは東独などと競いつつ着々と開発を進めており、一眼レフの開発史を著すとして実はそこにM3を登場させる必然性すら無い。オッカムの剃刀を持ち出すまでも無く、それが無くても説明が出来るならそのようにすべきなのである。あえてこの文脈で取り上げるとするならばビゾフレックスとの関係においてであろう。
  • なお「シンプルなバルナックライカはコピーできたが、高度なM3コピーを開発することはできなかったのだ」とする言説が見られることがあるが、悪質なデマであり言下に否定されなければならない。50年代後半は工業デザインの保護意識が急速に高まりを見せており、外貨獲得の為の輸出産業としても重要であった日本のカメラ産業は海外メーカーから厳しい目を向けられるようになっていた。逆にこの時期二級品の安価なまがいものの供給地として日本製レンズシャッター機をアメリカ市場向けに買い付けに来ていた海外ブローカーやそれをお得意様とした小規模メーカーの活動もあったようである。ローライからヤシカへの訴訟が代表的なものであり、少し後になるがブロニカも抗議を受けていく。戦中のどさくさに紛れて行われたバルナックライカコピーはともかく、パテントで完全に守られたM3をそのままコピーすることはありえなかったのである。
  • これは余談になるが「第二次世界大戦の賠償でドイツの特許が無効になり、戦後はバルナックコピーを世界中で作り放題になった」という言説が行われることがあるものの、これもデマに近い。そもそも日本がドイツの同盟国であり敗戦国であることを考えればあり得ないことはすぐ了解されるだろう。戦中に各国がライツのパテントを意図的に無視したのは事実であるにしろ、戦前においてはバルナックコピーを作成するにしてもライカのパテントを迂回するための方策が各社採られていた。それは距離計についてのライツのパテントを各社が尊重していたということであり、なぜ戦後においてそうならなかったかと言えば、単にライツの持っていた実用新案の存続期間が切れただけというのが真相と思われる。実際のドイツの戦後賠償とその際に接収された知的財産がどのような経緯で日本の光学の世界に流入したかは戦後のアメリカとの関係で記述されなければならない。

論説:3.「一眼レフ市場の拡大と主役の交代」

  • 外市場、特に輸出先と大きかったアメリカ市場の状況を押さえる必要がある。この辺りは資料を充分には確認できていないが、ライカM3が圧倒的な支持を受けたという状況では無く、むしろ妥当なプロ機として日本製高級RF機が受け入れられ、より安価な日本製レンズシャッター機、そして次の主役として一眼レフが期待されていたようである。既にアメリカには一眼レフの市場があった。このあたりは完成したミノルタスカイを持って勇躍アメリカに乗り込んだ当時の田嶋社長が帰国後即座に高級RF路線を破棄して一眼レフに切り替えたという著名なエピソードがある。となれば、高級RFから一眼レフへの転換は一眼レフ専業メーカーの開拓した市場の成長により余儀なくされたものと考えるべきでは無いか。
  • なお、50年代を通してカメラユーザーの経済力は大きく変わり、またカメラの価格帯も変動している。そのなかで商売のスタイルも変わらざるを得なかったことを考慮しなければならない。50年代の後半に至ってもバルナックライカコピー機(またはレンズ交換式RF機)はなお一定の市場性を保っていた。そのなかでキヤノンは価格を引き下げてなお機構には妥協しない戦略機種としてCanon Pをヒットさせる。

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  • ニッカのヤシカへの吸収とレオタックスの倒産について考察すると、この二社は市場の変化を読み違えたのではないかと思われる。二社を追い詰めたのは一眼レフとなによりレンズシャッター機である。その市場は一気に拡大し、現代に置き換えるならばコンデジの市場をその外側から駆逐したスマホのような存在であった。M3対抗機を開発している間に、肝心のレンズ交換式高級RF機が徐々に市場を失いつつあった。なお、バルナックコピー機はそれなりの市場を50年代末でも保っていたようであり、Canon Pはそこをターゲットに据えた。しかし価格帯は下がっており、商売としての利幅は薄くなっていっただろう。ニッカを吸収したヤシカヤシカYFとYEとして模様替えしたバルナックライカコピー(Nicca 33)とM3対抗機(Nicca III L)を出すが、この二機種のみでレンズ交換式RF機には本格参入しなかった。バルナックコピーを通じて培われたニッカの技術がどのようにヤシカの60年代につながっていくのかはまた別の歴史である。
  • レオタックスはM3対抗機としてのGを開発していたが、肝心の生産が予定通りにいかず資金ショートを起こしたことがのちのインタビューで語られている。そのなかで高野元社長は、まだ売れていたバルナックコピー機の生産を打ち切ってしまったことを悔いているが、同一フレームのバリエーションでは無い複数機種の生産がいかに企業に負担であったかを示す事例でもあろう。
  • また、このインタビューで高野元社長は融資を受けられなかった理由として銀行側担当者が交替して事情の分からないものが担当になったことをあげているが、これは額面通りに受けとめられる話だろうか。高級RF路線の先行きを暗いとみた銀行が追加の融資を行わなかった、その理由付けという背景も考えられるのではないか。
  • レオタックスはこの当時"レオフレックス(詳細不明)"という一眼レフの試作を行っていたようである。昭和33年(1958年)ごろからレンズ交換式レンジファインダー機は価格競争が始まり、それまでの高級機で値下げが断行されていく。その前後で普及機種メーカーが商売を続けられなくなって退場し、高級メーカーでも二番手組だったニッカとレオタックスは次の時代を迎えられなかった。レオフレックスとレオタックスGと、違う選択と違う歴史はあり得たのだろうか。
  • ニコンはSPと同時に一眼レフFの研究を始めていたが、開発はあくまでRF機を補完するものとの位置づけで考えていたようである。しかしまさしくシステムして登場したFはいざ市場に投入されると一眼レフ市場を席巻することになる。なお、キヤノンキヤノンフレックスを登場させたがこれは市場の支持を得られなかった。不具合が多かったと言うことだが、当時の実情を追うのは今後の課題である。
  • システムであること、と書いた。M3は大変優れたRF機である。多数の素晴らしい周辺機器にも恵まれプロとハイアマチュアに愛された。しかしRFである以上、その構造的限界は宿命である。非常に高価でもあった。仰ぎ見て嘆息し目を落とした新興カメラユーザーの視線の先にはもっと安価で、より直感的で、これまでない新しい時代の視覚的体験を切り開いてくれる一眼レフの姿があった。時代の主役は自ずから交代したのである。歴史のスポットライトは常にユーザーのいるところにあたる。デジタルが銀塩からユーザーを奪い、スマホタブレットがPCを玉座から引きずり下ろしたように。ニコンFは35mm RF機からだけでなく、プレス機からも市場を奪っていった。そして主役の座を奪われたとはいえ、銀塩やPCがそれぞれの魅力を放ち続けていることもまたレンジファインダーと同じであろう。カメラ/写真史はより複雑でダイナミックで魅力的なものである。

まとめ

  • 「卓越したM3が日本メーカーの方向性を転換させ一眼レフに注力させた」というのは、偽史である。実際の推移について断片的ではあるし不足はあろうが、従来の言説からは消えている部分を載せているので興味がある向きは資料に当たっていただきたい。その過程でこの乱雑で力任せのまとめで修正しなければならない点は当然出てくるものだと考える。
  • RF機から一眼レフへの移行は一眼レフメーカーの世界的な切磋琢磨のなかで、また感光材の改良やレンズシャッター機の進化と普及、経済力の向上と写真趣味の広がり、そのなかで求められた新たな需要と視覚体験、そのような総合的な動きで見るべきであろう。それを追うなかで、おそらく従来よりずっと素敵で刺激的な歴史との出会いがあるはずだと私は考える。

補論

  • 1.「誰が神話を"騙った"のか / 回想録等の取り扱いについて」
  • (1) 神話の覆い隠すもの
  • 最後にもう一度冒頭で紹介した「ライカ」の項に戻りたい。

1950年代ごろまでの日本のカメラメーカーはライカを目標にして小型カメラの技術開発を行なっていたが、1954年に発表されたライカM3はレンジファインダーカメラとして当時最高とまで言われるほどの技術を余すところなく投入しており、その性能の高さのあまり日本のカメラメーカーがそろって開発方針を一眼レフカメラへと大転換させるきっかけになった。(Wikipedia(ja)「ライカ」,閲覧 2017.12.16)

  • 一見もっともらしいこの記述なのだけれど、改めて目を通すと疑問ばかりが沸いてくる。
  • 例えば「ライカを目標にした」とは具体的にはどういうことなのだろうか。小ささだろうか?レンズシャッター機ならバルナック型と同等かそれ以下のサイズ感だった。シャッター機構だろうか?布幕横走りフォーカルプレーンで同等の機構は実現されていたし、むしろ独自の機構を実現しようと努力していたメーカーがある。ファインダーだってそうだ。精密感だろうか?なるほど、だが価格帯(ドイツ本国でのそれと比較してさえ)が違うのだ。50年代前半はベースとなる工作機械から生産体制までまったく違う。出来る範囲で努力することと無謀は違うであろう。
  • そもそもこの「日本のカメラメーカー」とは具体的にはどこを指すのだろうか。既に述べたように、50年代前半まではスプリングカメラ二眼レフの時代だった。次に来たのはセールスから言えばレンズシャッター機の時代でもあり、それは60年代以降も続く。一眼レフメーカーはレンズ交換式のRF機には行かず、最初から一眼レフに取り組んでいたり、それと普及帯のレンズシャッター機との組み合わせだったり、あとは交換用レンズがラインナップだったりする。旭光学(=ペンタックス)、オリンパスコニカヤシカ…レンズ交換式RF機に取り組んでいなかった故にほとんどまたは全く本文で触れることのなかった各社だが、彼らは日本カメラ史の傍流であろうか、そんな訳はないだろう。そして50年代で消えていった各社の群雄割拠。この「ライカ」の類いの記述からはその活躍がすっぽりこぼれ落ちてしまいかねない。それが私がこの文章に取り組んだ理由である。
  • M3が登場して各メーカーがしたことは「M3対抗機の開発」または「その思想の部分的吸収」であったことは既に書いたとおりだ。参考資料で紹介している同時代資料をみてもM3登場当時の論調はあこがれつつも「必要なのは国産機の質的向上だ」と至って冷静で「もうダメだ!これからは一眼レフにいくしかない!」なんて記述を目にすることは一切無かったことは改めて書いておく。
  • なお、国産レンズ交換式RF機はM3登場以降も新機種は登場し続けて60年代まで一定の市場を保ったし、RF自体はEE(AE)機構と組み合わさって60年代以降のカメラ/写真史に続いていく。興味のあるむきには是非調べていただければと思う。
  • (2) 回想録等の取り扱いについて
  • では、この偽史はいつ頃発生したのか。90年代のクラシックカメラブーム前後に出版された書籍類の中に散見される記述がその原因であろうとみている。ただし源泉と言っているのであって偽史そのものであると言っているわけではないことに注意していただきたい。
  • 例えばミノルタ(千代田光学精工)出身で幻のミノルタスカイのデザインを担当した白松正『カメラの歴史散歩』にはこのような記述がある。

このショック(引用者注 M3ショックのこと)がやがては時代の要請もあって、日本の有力なメーカーを一眼レフに指向する方向に転換させ、35mm一眼レフ時代を築いていくことになっていったのである。(P.97「5.使う人の心に触れる「ライカ」」)

しかしやがては「M3」に対抗することの困難さの意識を背景に、日本の有力メーカーは、次代の主力になると予感させる35mm一眼レフへの取り組みを促進していくことになる。これが次代の要請にも合い、ドイツと日本のカメラ産業の主役の交代にも連なっていくことになる。(P.155「I.日本カメラ産業の戦後10年」)

また白松の友人で同じくミノルタ出身の神尾健三ミノルタかく戦えり』には以下の記述がある。

「ライカM3」の出現で日本カメラはペンタプリズム35mm一眼レフに方向を変え、独自路線を走ることになった。(p.55「第2章 焼け跡からの船出」)

  • 単純な「神話」と比較すれば奥行きのある表現ではあるが、それにはかなりの注釈が必要だろう。二人がともに同時代のミノルタ(千代田光学精工)の技術者であったことは意識しておく必要があるかも知れない。少なくとも50年代のミノルタの一部にはライカを目指しライカにあこがれる空気があったことが著作からも読み取れ、それは後に一眼レフやCLでのライツとの協業の下地になっていくのだろうが、歴史資料として取り扱うには注意が必要だろう。
  • 以下のような記述を見てなるほどと思ってはいけないだろう。技術者としての神尾の思い入れがどちらにあったかは分かるが、それをこのように表現してしまうのだ。コンタックスもまた人の手によって作られている以上、そちらへの敬意もあってよかろうにと少々鼻白むところである。

バルナックというマイスターは、いわばドイツのカラクリの匠である。こんなカメラは機械工学の専門家の手からは生まれない。ツアイスの「コンタックス」は機械工学者の知恵から生まれたが、機械工学の論理ががんじがらめに交錯している。機械は動くが、カメラに生命感がない。天才の息吹がないのだ。(同上)

  • 例えば神尾の著作では以下のような表現にも行き当たる。実はここまで引用箇所は同じ頁である。

「M3」のカメラ設計は完璧だが、バルナックのような単純さがない、とくにシュタインが設計したレンジファインダーは凝りすぎている。「バルナック・ライカ」のもつ単純明快な設計ではない。ここまではやれないと日本のカメラの技術者は、別の登山道を求めて「ライカ」と決別した。(同上)

だが、アメリカ市場では高価な「M3」よりも堅牢で安い「ニコンS」に衆目が集まり、プロは競って「S2」を買ったのだ。「M3」はハイアマチュアの金持ちが買うカメラ、「S2」はプロが使うカメラと相場が決まってしまった。これが「芸術」と「経済」の評価の差である。「床の間」の飾りと「実用品」の差である。(同上)

  • これらは当時の実態であろうし、実感でもあろう。だがほんの一頁前で神尾はM3を「やっと手に届きそうになった『ライカ』がその瞬間、再びはるか彼方に飛び去ったのである。その後、日本のカメラの進路には「ライカ」の乱気流が立ちこめていた(p.54)」「「ライカM3」という優雅な貴婦人のような新カメラに、日本カメラはシャッポを脱いだ(同上)」とまで賞賛しているのだ。それが次の頁でかくのごとしという次第で、人間の主観というのはいくらでも矛盾できるし、それぞれの文脈において嘘はないのだが、時系列や客観的な資料で確認していく作業を怠ると危険だと改めて意識させられる。
  • なお、日本のカメラ/レンズ史をたどる上で白松の著作も神尾の著作も現場の立場からの貴重な証言にあふれた著作であることは間違いない。問われるのは読者側の姿勢だろう。例えば神尾の別著作に『ライカに追いつけ!』(1995)『目指すはライカ!』(2005)があるが、私がこの二作から興味深く読み取るのが「ライカを目指すところではなく」または開発者とは別の立場でカメラの市場に関わった様々な人々の動きであるように。
  • このあたりライカの名前がほぼ出てこない日本カメラ史をたどろうとするなら例えばオリンパスでPENやOMシリーズの開発者となった米谷美久の回想などは一つの補助線になるだろう。
  • (3) 誰が神話を"騙った"か
  • 一般に十年一昔と言う。十年の歴史を一昔としか認識できなくなる辺りが歴史と"お話"の境だろうか。同時代資料にもアクセスしにくくなる。記憶は失われていく。そして三十年は"一世代"の基準とされる。ライカM3から遠く一世代三昔以上離れた90年代のクラシックカメラブームの頃にまとめられた資料の質はどうだったであろうか。同時代から離れるに付けディティールは失われ、当時の大事件は英雄の行為に収斂し、伝説化していく。回顧録さえ注意深く扱う必要があることは上記の通りだ。
  • AJCCの代表を務めた高島鎮雄の著作に『クラシックカメラへの誘い』があるが、そこでの記述ではこうなる。

それまで必死にライカに追いすがってきた日本製35mmフォーカルプレーンシャッター機が、もはやM3に追従することは不可能だと距離計連動方式に見切りをつけ、一斉に一眼レフに転じてしまったのだ。もちろん、一朝にして一眼レフに大転換できるわけではなく、日本のメーカーは早くからカメラの将来は一眼レフにありと見極めて、秘かに研究、開発を進めていたのだが、踏ん切りをつけさせたのはほかならぬM3であった。(P.48 「第6章 ライカM3の衝撃」)

  • 50年代の動きをひとまとめの「日本のメーカー」として書こうとする乱暴がこのような微妙な表現につながってしまうのだろうか。「もちろん」前後の記述に矛盾を覚えなかったのか。RFから一眼レフへの"転換"を機構史として描こうとすることに無理があるのだと私は考えるし、マニアが往々にして見逃すのが実際の市場の動向であったり、それを支持するユーザーの視座であるのだが、ここでは名機M3を"英雄"として描きたい欲望が著者の目を曇らせてしまっていると思う。
  • クラシックカメラ選書はよく読まれた。上記の神尾や白松にしろ、このあたりが神話の"源泉"だろう。それぞれは積極的に"偽史"を説こうとした訳ではまったくないし、分厚い著作のなかの一部に微妙な記述が紛れ込んだに過ぎない。だがそれが全体から切り離され「決まり文句=クリシェ」となったとき伝説化が始まる。
  • それはおそらく90年代のクラシックカメラブームでのライカの取り上げ方にマッチした。私は当時ブームの外にいたし関心も無いのだが、今回改めてこの項を書くために当時の資料も集めたものの質に問題があって参考資料に載せていないものも多い。
  • 乱暴に言えば、90年代のライカは実態を離れ神話上の英雄のごときものであったかのようだ。ライカの栄光はカメラ史に高く、皆がその英雄譚を語るたびになぜかディティールは増補され新しいエピソードが付け加えられていく。しかし、その陰で実際のところ何人がライカを使い、また同時代資料にあたって書いていたのか。これまで信頼できる資料と思っていた『写真工業』誌でさえ、90年代に書かれた50年代の記事の記述は怪しい。2000年代以降の記事はたとえ名の通ったライターの記事でも孫引きばかりで目も当てられないというのが実情である。
  • 皆、きっと楽しかっただろう。だがもう十分だ。神話でもなく伝説でもなくその時々のカメラ/写真史に向き合っていきたい。私たちは知っている。決して優れたものが評価されるわけでは無く、充分に評価されないまま埋もれいくことが往々にしてあることを。また既に評価されているものも、別の角度から眺めるとまた違った魅力的な姿を現すと言うことを。
  • 通説を補強していくことも大事な作業である。と同時に、通説がむしろ誤りだというならそれが覆い隠してしまったことを、当時充分に発揮されなかった可能性を見つけ出し愉しむことこそ趣味人の本懐ではないだろうか。
  • 2.「1950年代のカメラ/レンズの価格帯について」
    • 以下に参考資料として当時の写真誌に掲載された広告資料を示す。現在の物価と当時の物価の比較は難しいが、参考に公務員の大卒/高卒初任給を示すので適宜換算していただきたい。なお、50年代を通して、前・中・後期で経済状況は全く違うと言うことは踏まえる必要がある。

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  • 1.『カメラ太陽堂 広告』
    • 出典:1953 「フォトアート臨時増刊 続・カメラの知識」 研光社より
    • 参考:大卒初任給(公務員)7.650円 高卒初任給(公務員)5.400円
      • 太陽堂はビューティーフレックス(二眼レフ)やビューティーカンター(35mmレンズシャッター機)で気を吐いたカメラメーカー(太陽堂光機/ビューティーカメラ)でもある。大正時代から続くカメラ店として営業を続けたが、2013年6月に販売店としての営業を終えている。

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  • 2.『富士写真株式会社 広告』
    • 出典:1955 「フォトアート臨時増刊 35ミリカメラ新書」 研光社より
    • 参考:大卒初任給(公務員)8.700円 高卒初任給(公務員)5.900円

謝辞

  • この原稿をまとめるにあたって、以下の皆様にお力添えをいただきました。
  • 佐藤 様 ( @sigeosato )
    • サークル「新日本現代光画」主宰
    • この原稿の着想を得るにあたって、日本製バルナックライカコピー機の系譜について、または一眼レフとの交替について、氏とのやり取りに啓発された部分が大きいです。ライツの距離計の実用新案について具体的にご指摘いただいたのには助かりました。
  • kan 様 ( @kans1948 )
    • Kan's Room 管理人
    • 言わずと知れた大御所でいらっしゃいます。精読いただくとともに同時代の記憶をもとに傍証をいただけるのはありがたいことでした。
  • 森羅 誠 様 ( @Rally750)
    • CRK2 process 管理人
    • 今回、記事をご精読いただくとともに大変多くのご助言をいただきました。森羅様のご提案がなければ途中で話が妙な方向に行ったり、より読みづらい物になった可能性が高いのです。また途中でたくさんのライカをお譲りいただきました。実機をもとに考えることがどれだけ補強になったでしょうか。本当にありがとうございました。
  • dinosauria123 様 ( @dinosauria123 )
    • ペトリカメラまとめサイトPetri@wiki管理人
    • まさか「ライツの距離計の実用新案」について実物を持ってこられようとは…本当にありがとうございました。西の端在住の厳しさを感じていますが、こうして地方の皆様が活躍されているのを見るに私もできることをしていきたいと奮い立ちます。
  • 他にも多くの方のご支援をいただきました。皆様の"いいね"やRTがこんなに心の支えになるのだなと改めて感じた次第です。本当にありがとうございました。

参考資料

  • 同時代資料
    • 1952 「フォトアート臨時増刊 カメラの知識」 研光社
    • 1953 「フォトアート臨時増刊 続・カメラの知識」 研光社
    • 1953 「フォトアート臨時増刊 35ミリカメラ全書」 研光社
    • 1955 「フォトアート臨時増刊 35ミリカメラ新書」 研光社
    • 1957 「フォトアート臨時増刊 二百万人の35ミリカメラ新書」 研光社
    • 1957 「写真工業 No.61 8ミリ・カメラ レンズ フィルム プリズム一眼レフの諸問題」 光画荘
    • 1958 「写真工業 No.77 特集 模倣問題を衝くミノルタのカメラ」 光画荘
    • 1958 「フォトアート臨時増刊 写真百科」 研光社
    • 1964 「特集フォトアート No.61 100万人の一眼レフカメラ新書」 研光社
  • 50年代の記憶
    • 小倉磐夫 2001 『国産カメラ開発物語 -カメラ大国を築いた技術者たち-』 朝日新聞社
    • 神尾健三 2003 『めざすはライカ! ある技術者の書いた日本カメラ史』 草思社
    • 関口幹夫(編) 2004 『栄光を目指して -汗と涙と笑いの写真流通史-』 写真流通商社連合会
    • 松井弘治 2016 『あの日あの時思い出カメラ』 海鳥社
  • 通史
    • (日本写真機工業会 編) 1971 『戦後日本カメラ発展史』 日本写真機工業会
    • (日本写真機工業会 編) 1987 『日本カメラ工業史 -日本写真機工業会30年の歩み-』 日本写真機工業会
    • (朝日新聞社編) 1988 『カメラ面白物語』 朝日新聞社
    • 北都連太郎 1999 『クラシックカメラの世界 1890's-1960's』 ナツメ社
    • Todd Gustavson 2009 "CAMERA" GEORGE EASTMANHOUSE
    • Todd Gustavson 2011 "500 CAMERAS -170years of PHOTOGRAPHIC INNOVATION-" GEORGE EASTMANHOUSE